kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

経典の民??

こんにちは。

 

昨日書いたように、『我々のものとは、大きく異なる法体系』by David Friedmanをダラダラと読んでいます。4,5章のユダヤ法・イスラム法を読んでいて思ったことを2つほど。

 

1つは、宗教というものや、宗教法という概念について。

 

小さなときから日本で育てば、実感としては日本法しか知らないわけです。日本法には、あまり宗教的な色彩はありません。少なくとも、主要な法律では、まったく強くはない。

 

ボクは、明治以来の西洋法とその精神の移植、日本国憲法の自由・平等の教えをそのまま安直に信じた共産党員の息子です。よってそこに、西洋合理主義以外の視点がほとんどないのは(伝統主義からすると問題だろうが、)当然となります。

 

さて、ここで生じるのが、ユダヤ教徒イスラム教徒への素朴な疑問。

 

なんでコーランやトーラー、聖書なんかの books がそんなに大事なのか?? ボクには、こうした経典の存在意義がまったく理解不能です。つまり世俗的な政治権力の定めた法以外は、どうにもこうにも そうしたものの正当性がわからない。(コレ自体が、良くも悪くも、東アジア人的な権力一元主義なのかもしれませんが。)

 

2つ目は、この前から続く神聖性の概念についてです。どの聖書もコーランもどの仏教典も神聖だとは感じない人はたくさんいるだろうが、そういう人には「神聖」なる概念がないのだろうか? という疑問。

 

これは明らかに違っています。昔アメリカにいたときに、ある年配の婦人から飛行機内の無駄話中に、「あなたはいつアメリカに帰化するの?」と聞かれました。内心「えっ!!! 帰化する気なんてまったくないんだけど、、、」

 

外国人がアメリカに帰化する場合、星条旗に誓いをたてる必要があります。嘘の誓いをするのは、神も仏も経典も信じていなくても、自分の良心の問題からできない人は多いでしょう。というわけで、良心や誓いは普遍的でも、それが特定の宗教と結びつく必然性はないということです( ←日本人にとっては当たり前か)

 

この結論のコロラリーは、日本国憲法もまた当然に神聖な経典などではなく、適宜改変されるべき人為法でしかないという点。単なるマッカーサーの置き土産を特段に神聖視(硬性憲法化)する必要はないし、さらにはあからさまに現状と食い違う9条などの「違憲合法」みたいな詭弁は(トーラーでもコーランのやたらと頻発する石打ちの刑でも共通ですが)、バカらしいのでやめるべきでしょう。

 

じゃないと、逆に「法学とは詭弁術である」みたいな(ある意味正しい)認識が広がってしまうことが危惧されてしまうのです。そっちのほうが、よっぽど知的合理性に照らして問題ではないでしょうか??

 

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