さて、genetic interest について書いたのですが、この理論は人びとの倫理感をだいぶうまく説明していると思います。(だからと言って、僕はあまり当為概念としていいものとは思わない。)
例えば、立岩さんのような反リバタリアン倫理の持ち主たちの根源には、、「他人に対してもgenetic interestがあるからだ、」という説明が成り立ちます。
なるほど、麻薬をやれば、当人はシビレてハッピーになるが、それは実はリプロダクションにはマイナス効果しかない。それで、親であれば、間違いなく子どもに麻薬をやるな、というでしょう。もちろん、イトコに対してもやめろ、というでしょう。これを拡張すると「共同体の構成員たる日本人すべて」にとってダメだから禁止するという規範になる。
それで他人が麻薬をやるのもダメ、売買春するのもダメ、ジダラクな説活もダメ、、、、みたいな干渉主義道徳と法律が蔓延しているのでしょう。また、少なくても西洋社会でゲイであることのが否定されてきたのも、生殖しないことがgenetic interestに反するからでしょう。
そういえば、ノージックの「アナーキー・・・」には、哲学者らしい面白い例がいろいろと載っていて、その一つには、「成功した夢をみる機械につながれて、リアルな人生を捨てる男」の話があります。ノージックはこうした人生を否定していますが、確か、僕の好きなマンガ「コブラ」でも、そういう夢を見せてくれる睡眠機械から話が始まったと思います。
こうした機械が、「どうぶつの森」を楽しむのとどれだけ違うのか、ということが問題になるのでしょうが、親であれば、あまりにゲームばかりやっている息子には注意をすることからは、遺伝距離が近い → できるだけ繁殖するようにという干渉が大きい、という常識的な結論を見出すことができます。
というわけで、genetic interestは非常に説明力の高い良い理論だと思いますが、そのまま現代社会の当為概念とするのには反対です。もちろん、上述の干渉主義も生じますし、さらには親の犯罪を子どもが贖罪するべきだというロジックも成り立つことになってしまい、現代の個人主義とダイレクトにぶつかる事が多いからです。
やはり理性をもった人間は合目的的な行動をとることが普通なので、過度な干渉は不正でも不効率でもあります。というわけで、僕はgenetic interestの規範的な帰結にはあまり賛成できないのです。
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