kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

麻薬はなぜ禁止されるのか?

この頃はどうもメンタルに落ち込んで、すべての生産性が落ちてしまう。よく報告されているような、日光の量や気温と関係したmood disorderなのだろう。


さて、なんとなくElliott Sober「進化論の射程]という訳本を読んでみた。

http://www.amazon.co.jp/dp/4393323181/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1290008363&sr=8-1

Soberは生物学者であるDavid S. Wilsonとともに"Unto others"を書いた哲学者として有名だ。Unto othersは訳されていないが、一言で言えば、「ヒトはその進化的な環境において、共同体で暮らしてきたために、他人と共感する能力が進化していて、他の生物で仮定されるよりも強く集団選択の圧力を受けてきたために、ヒトでは(近親淘汰をこえた)利他行動が発現している」とでもいう内容だ。


この主張はD. S. Wilsonが「みんなの進化論」でも強調している。


http://www.amazon.co.jp/dp/4140813717/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1290008435&sr=1-1


ウィルソンは、人間の本性に対して進化論を適応する際に、驚くほど底抜けにpositive thinkingだ。普通は、集団選択を肯定することは、同時に「われわれの戦争への傾向を高めているはずだ」などなど、ネガティブだと考えられるような付随的な命題を導くため、political に警戒されてきた。しかし、Wilsonの性格は、そういった警戒的な配慮を必要としないくらいに、オープンで前向きだ。こういった素晴らしい人格には、本当に驚かされる。


さて、本題からそれたが、この哲学入門書自体から新しく学んだことはなかったが、そこで自然主義の誤謬について書いてあるのを読んでいて、思い出したことがあるので、それを書いてみよう。


麻薬などの向精神薬はどの社会でも基本的に否定されるが、リバタリアンはこれを自己決定の原理に反した、倫理的に許されないものだという。この論理は僕もいろんなところで書いているが、せっかくブログで書くのだから、ここでは僕の理解と、それに付随する疑問を詳述する。


通常、経済学では本人の支払い意思だけを考えるため、本人が望めば問題はないように思われる。しかし、取引に第3者が関係する場合もある。

覚せい剤や麻薬を服用しようとする本人はその行為を、少なくとも当初の対価よりも望んでいるのだろうが、彼の行為を知らない親がいる場合も多いだろう。この時、本人が麻薬を服用しないことに対する、親やその他の関係者の(潜在的な)支払い意志は、本人からの利益(麻薬の売人が得る期待的な利益)よりも、大きいだろう。典型的に麻薬に惹かれるのは本人が若い時であるから、その本人の人生が破壊される、あるいはそのまま麻薬組織に取り込まれるのは、親や親族の利益(本人を通じての直接な適応価、あるいは評判などを通じての親族からの間接的な適応価にも)大きく反している。


これは自分が親になってみるとよくわかるが、別にそうでなくても、いまどきの子育ての平均費用が一人当たり3000万を超えていることからは、そういったことを想像することは難しいことではないだろう。


この論理では、麻薬取引が非合法なのは、親(有権者)の意志であって、若年の本人の自由は束縛されているが重視されないのは当然ということになる。親の視点からは、麻薬取引がそもそも禁止されている方が、自分が常に子供を監視する必要性が下がるために望ましい。

よく知られている脳科学の実験では、自分の脳の線条体報酬系)を電気刺激するレバーを押せるように手術されたラットは、死ぬまでそれを押し続けて死んだ、という。おそらくは恍惚の中で餓死したのだろうが、非常に強力な麻薬も同じ原理が当てはまるはずだ。


これに応じて、麻薬取引や消費が「悪」であると感じるように(遺伝的にであれ、文化的にであれ)なっていくだろう。なにせ、そもそも麻薬の売人がいなければ、子どもが麻薬を入手することはできない。つまり、麻薬取引は、本人の意志は別にして、進化的に親や親族の適応度を大幅に減少させているために、悪だと感じられるようになった、と読み替えると納得できよう。

不思議なことに、自殺は日本では罪の意識はないように思うが。西洋では自殺も罪とされてきたらしい。しかし、このコンテクストで考えると、自殺が禁止されるのは自然になる。また、自殺に教唆者がいる場合、親の立場からは麻薬の売人と同じように強く非難されるだろう。


結論としては、この自然的な麻薬禁止感情に対する説明は、別段、麻薬が合法的であるべきか、あるいは禁止されるべきかについては、何も語らない。ただ、そういった禁止感情が人々に受け継がれている理由を説明するだけだ。とはいえ、少なくとも、近代以降の個人の自由な意志の尊重という価値観と、親の遺伝的な利益は対立する場合がありえる、ということはいえそうだ。


リバタリアンである僕は、「自由意志」と「効率」との間に、あるいはリーマン予想のように美しい対照関係があってほしいと望んでいるが、それは単なる幻想なのか??あるいは特異点はともかく、大域的な挙動については、自由と効率が(確率測度1で)一致していると確信できるのか??


もちろん、人が時に誤りを犯すことは、政府規制を当然に正当化するわけではない。あるいは、契約法的に麻薬取り引き人を私的に処罰する契約によって、無政府資本主義の世界であっても、それは窃盗と同じように禁止される確率も高いように感じる。それでもなお、存在と規範における哲学的なナゾは残されているように思う。