先日の小生のポスト、私的制裁はtoo much or too little? の内容に、敬愛する友人からメールが来た。内容の中では、罪への制裁だけでなく、「許し」もまた、キーとなるのでないかと指摘されていた。
これは実際、本当のようで、Fehr and Rockenbach, 2003, Nature なんかを読むと、
第1プレイヤーが第2プレイヤーにある程度のサイドのリターンを期待して渡すという信頼ゲームにおいて、
「第2プレイヤーが十分に返してくれなかった場合には、第1プレイヤーは罰を与えることができるが、その額をもらえなくても第1プレイヤーは罰を与えないと宣言した」場合と、
「第1プレイヤーは十分ではないリターンに罰を与えることができ、実際に一定量よりも少ないリターンである場合には、罰を与える」と宣言した場合では、前者のほうが、大きなリターンを得ている。
という結論が得られている。
解釈はいろいろありえるだろうが、つまり自分の不利益に対しての厳罰主義をとるというのは、「厳罰者自身の自己利益を追求している」と認識されるために、相手は非協調的になる、ということなのだと考えられている。
キリスト教ではないが、「私は汝が何をしても許す」というメッセージは、かえって信頼のシグナルを放つことによって、協力を引き出すのだといえるのだろう。これはこれで、多くの人々の納得する結果だろう。
とはいえ、それでも僕らの世界に根っからの悪人ぽい、搾取者っぽいやつがいるのはなぜか?
それは、頻度は少ないのだろうが、相手の出方にかかわらず、かならず自己利益を追求する「Psychopathetic」な個人がいるからだろう。相手が互酬的であるかどうかにかかわらず、自己利益のみを追求する人間はいるだろう。その頻度に応じた対策が必要で、それが他人への不信感につながっているのだろうと小生は思っている。
Fehr and Rockenbach, (2003, Nature)の結論とは若干違うが、つまり実は、相手のタイプを見破り、それに応じた頻度依存型の行動をとるのが最適であり、あるいはそうせざるをないのだ。仮に相手のタイプを知ることができなければ、だまされれたりするという結果になるのだろう。
しかし、相手のタイプによっては、いろいろと最適行動は変化することになるだろう。そのあたりをもう少し、僕自身でもダラダラダラダラwwと経済実験なども含めて確かめてみたいと思っている。