kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

消費主義は広がっているが、、、

カゼをひいたため、今日は朝から体がメチャだるだった。ところが、家族で近くにできた小さなモールに行く約束をしていたので、行ってきた。もちろん、子供に散財させられたのだが、、、


こういった消費主義的なライフスタイルは、アメリカでも日本でも、あるいはどの国でもまったく同じのようだ。いつも感じることだが、小生のような凡庸な人間は、こういったモールで人生の多くを過ごすのだろう。それにしても、こういったモールでの買い物というのは、アンビバレンツが残る。


別にあってもなくてもどうでもいいようなものを見物しながら、試着したりして時間をつぶしながら買ったりもする。すぐにそれらの商品は忘れられて、また新しいものを探しに行く。これが人生の時間の大きな部分を占めるのだとは、、、

それを批判する文明批評家は多いし、consumerism批判には共感することも多い。さりとてそれを否定して、すべての人間が別の形の生きがいを見つけるというのも、なんかありそうもない。それこそ、トロツキーが夢見た共産主義ユートピアのように感じる。


人は皆、セルフ・イメージを高めるために、購買・消費して、自己満足している。例えば、ロバート・フランクは、そういったゼロサムゲームを否定するべきだと言うが、それはまさに女性全員に対して、「化粧はゼロサムゲームだからやめよう」ということだ。


女性の全員が納得して、化粧をやめるだろうか!? 化粧のような活動が、ある種の生きがいになっている人も多いように思われる。

反対に、男性の活動は究極的にはすべて、女性を獲得するために実行されているはずだ。政治活動による権力欲も、芸術の創作も、あるいはもっと凡庸な消費欲求もすべてが、reproductive successをめぐる、(少なくとも進化的過去においてのニア)ゼロサムゲームだと考えられる。とはいっても、そのことを全員が理解したとしても、なお、ほとんどすべての男性は多様な欲望を持ち続け、それは彼らの自己実現そのものであり続けるように思われる。

というような形で、存在概念の説明論理を突き詰めてしまうと、またしても、この世の活動のすべてを肯定してしまうことになる。すると、文明批判の余地は残されていないことになるのが、これこそ、自然科学マインドのもたらすアポリアというものだ。


今日のように、体調が悪いと、どうも弱気な発送になってしまうなあー。ということで、まあ、とりあえず、あまり物事に執着しないという程度にしておきたい、と思う一日でした。