kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

政治という公共財

kyuuriさんのおかげで思い出したのだが、
ジョン・ロットのFreedomnomicsには小生が感心した点が多くあるので、
皆さんも また読んでみてください。
(なおチョー急いでいたので、誤字脱字が多くてすいません。)


中でも女性への参政権の拡大が、政府を大きくしてきたという点については、
ほとんどこれまで主張されたことがなかったのではないかと思う。
少なくとも小生は初めて聞いたのだが、これが説得力があるのだ。


男性は女性に比べ、
その存在自体からして、all or nothing のリスク戦略をとりがちで、
このことが政府による再分配を比較的に支持しない理由なのだろう。
対して女性の多くは、むしろリスク回避のために大きな政府を要請する。


ちなみにブライアン・キャプランの「選挙の経済学」にも
女性は男性よりもother things equal で自由貿易に反対することが記されている。
おそらくはこれも、外国産品への不安感が高いからだろうと小生は考えている。


とすると、小さな政府による自由貿易国家の実現は難しいということになりそうである。
これを克服するためには、


1、「大きな政府が(進歩主義者が望むほどには)機能しなかった」という命題の認識、

2、「自由貿易を否定することは、自分の生活を貧しくする」という命題の認識、


の二つが必要だろう。


しかし、リバタリアンがよく指摘しているように、このことは、政治活動が公共財である限りは、
たいへんに難しいことになってしまっているというわけだ。
その選択を個人レベルでは決定できず、
かつその誤りからの不利益を自分自身が受ける必要がないためだ。



「キャピタリストのトラック」とその解題 by anacap さんを見ればわかるように、
(ロシア人を含む)世界の全員が、社会主義国の製品も政治もボロいことを確信しているのに、
なぜ 「みんなで決める」のが結果として素晴らしいものを生み出しえると感じてしまうのか。
小生は上記の二つの命題への認識を広めたいのと同じほどに、
政治的な活動への感覚そもものを批判したいのだ。