kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

『what it meas to be a libertarian』

 著者Murrayは、人種差別で物議を醸したThe Bell Curve を心理学の泰斗Harrnsteinと共に著したリバタリアンです。この著作はCharles Murrayの書いた一般向けのリバタリアニズムの入門書というような感じのものです。

 内容はしごくまっとうな穏健派のリバタリアンとしての主張です。国防・夜警などの最小限度の国家の存在に加え、教育についてもバウチャーによる最低限度の義務教育を認めるというもので、これはリバタリアンとしては穏健なものだと言わねばなりません。

 マレーのみならず 僕も常に思っていることなのですが、「人はそれぞれに天与のものも価値観も違う」というテーゼを受け入れると、個人主義的なリバタリアニズムはほとんど必然となるという事実です。ここには明らかにある種の現実の認識と、個人主義自由主義的な当為概念との間に親和性があるのです。

それと著者は「古き良きアメリカの伝統に帰れ」として、founding fathers 特にTomas Jeffersonなどの古典的リバタリアンリベラリスト)を挙げます。思うに、アメリカには建国の理念に自由主義がありますが、日本を始め、ほとんどの自生的な国家は まさにロスバードのいう強盗団から出発しているので、まったく自由とは関係なく、むしろ抑圧と搾取から出発したといえるでしょう。
 この意味で僕は常に、アメリカ人のリバタリアンは、その隣人への訴求力が強く、うらやましくと思います。が、サッカーはイギリスで生まれても、ワールドカップはブラジルが勝つというようなこともあります。あきらめずにコツコツやるつもりです。

 なお、僕と同じような生物学的な考えから、進化生物学について多くの著作があるマット・リドリーもまたリバタリアンです。生物はそれぞれに多様であり、同じようにヒトの遺伝子プールの中から「価値」が生まれる。とすれば、他人に自分の価値を強制するよりは、それぞれの作り出せるものを自発的に交換した方が、よりすばらしい社会になるのではないでしょうか。

 やや話がそれてしまいました。マレーはリバタリアンであるということは、つまり社交の自由を意味するのだと言っています。つまり個人主義はあくまで個人が自由に行動できることを意味しているのであり、決して個人が無関係に(寂しく一人で)生きることを意味してはいないのです。

 僕は柔道よりもF1が好きなのに、日本国は僕の財布からお金を取り上げて柔道の強化費に充てています。こういうことはやめて、僕にそのお金をBAR Hondaに寄付させてほしいのです。あるいはエイズの治療法の研究よりも盲導犬協会に。そういったsocializationがリバタリアンとしての僕の望みの一例です。