kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

「本物」がわからない!?

こんにちは。

 

ある商品が良いものかどうかがはっきりとしないことは多いように思います。なんである物がそんなに高いのか? ということがわからない場合のことです。

 

 

例えば ピアノの演奏なんかは、芸大を越えてプロがどう上手いのかボクにはわかりません。とすると、それには(少なくともボクにとっては)意味がないのかが問題になります。

 

そういう高尚な話はさておき、なんでメルセデス・ベンツが高いのか? という問いはもっと身近です。乗ってみて違いがまったくわからないのなら、それは無意味なのでしょう。

 

 

それでも長期間乗ってみて、本当に疲れが少ないのか、あるいは事故にあったときに被害が軽減されるのか、といった価値については、即座にはわからないことですが。。。

 

 

「何が一流なのか」、「何が良いものなのか」が良くわからない、というのはボクが小さな頃から考えてきた(弱いながらも哲学的な)疑問です。1984年に大学に入学した後のある日、田舎から東京に出てきたばかりのイモのボクは、ピアノの達人であり、かつ湘南高校から進学してきたsophisticateされた友人に、愚かにも聞いたのです。

 

ヤマハのピアノとスタインウェイのピアノの違いってあるの?  値段とかが10倍とか違うんだけど。」

 

返事

 

「えっ、君には、ヤマハスタインウェイが同じに聞こえるの!?? 」

 

と聞き返されてしまいました。もちろん、とんでもなく恥ずかしい気分になりました。しかし、同時に「自分には聞こえないものが、聞こえる人がいる!!」ということを、否応なく痛感させられました。

 

もちろん、今もボクには違いがまったく聞こえないのですが、、、

 

さてRolexがどう素晴らしいのかを知るのに良い映像を見つけました。最近YouTubeを見ることが多いのですが、中でも もっとも美しくて、分かりやすい映像です。

 

 


This Fake Rolex Is The Most Accurate Yet | Watchfinder & Co.

 

ある物が素晴らしいことを知るには、それを良く見るのではなくて、むしろ偽物と比べてみるにしくはなし、という話です。この映像は実にわかりやすく本物と偽物の違いを説明してくれます。本当に誰でもわかるのです。

 

 

もちろん、その後に 「こうした小さな違いに、何十万円も余計に支払う価値があるのか?」という問題は残ります。これについては また気が向いたら考えてみて下さい。

 

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誰にも未来は予測できないが、

こんにちは。

 

先日 バスティアの「法」をupしてみました。これは政治的なパンフレットなので、その中では1849年時点のフランスの政治状況や、あるいは社会思想の常識などがリアルに描かれています。そうした状況の違いは 現代人からすると かなりの違和感を感じるものなのですが、まあ同時に学者的には かなり楽しい発見であるという側面もあります。

 

 

当然 そこでも常識も、20世紀の後半以降に育ったボクの世代が 小さい頃から教えられるものとは大きく違います。

 

 

例えば 現代的には 基本的人権には自由権だけではなくて、生存権(あるいは教育を受ける権利)などの社会権が含まれるのが常識です。この社会権は 例えば日本国憲法でも「健康で文化的な最低限度の生活」をする権利として保障されており、もっと具体的にも生活保護政策なんかとなって ある程度で実現しています。

 

 

19世紀の中葉には こうした社会権が権利に含まれるという常識はなかったので、バスティアは当時 そうした主張をし始めた社会主義者たち(フーリエやルイ・ブランとかですね)に対して痛烈な批判を展開しています。「そうした社会権を実現するためには、誰かの財産を奪うことが必要になる。」つまり 自由権社会権にはトレード・オフの関係があると指摘しているのです。

 

 

しかしその後の歴史の展開をみると、イギリスでもフェビアン協会などが活動するようになりました。20世紀に入るまでには 西ヨーロッパでは 結局は社会主義者たちの考えが広く共有されるようになって、社会的基本権が認められるようになりました。こうした新しい常識は、世紀の変わり目あたりに教育を受けたアメリカ軍人であるマッカーサーにも共有されて、現在の日本国憲法に移植されたというわけです。

 

 少なくとも 現在の社会的な常識が 昔は常識ではなかったというのは興味深いことです。 未来には こうした常識がどう変化し得るのか?? 誰にもわかりませんが、例えば中国の情報検閲の実態を見ていると、1984のような世界にはならないことを つい願ってしまいます。。。

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

 

 

 

根っからの政府好き

こんにちは。

 

何ヶ月か前に たまたまスティグリッツの教科書を調べ直す機会があった。代表的な教科書なので、記述なんかについてちょっと参照しようと思ったのだ。あちこちで気付くのは、スティグリッツという人は、根っから本当に政府が好きなんだということ。

 

で、最近のニュースでも「コインも中央集権じゃない、誰の管理にも属していない」のが気に入らないんだと言う。

 


Bitcoin 'Ought to Be Outlawed,' Says Joseph Stiglitz

 

まあ 全世界の中央銀行(つまり政治家たち)と同じ立場ではあるけど、ベネズエラやアルゼンチンのインフレを見てみてよ。なんで、そんなに政府が好きなの??

 

 


Joseph Stiglitz Calls For The Use Of Violence Against Peaceful Bitcoin Users On State Propaganda TV

 

 

スティグリッツだけではないけど、ほとんどの良識のある経済学者というのは、

 

  • 市場は大まかに失敗していて、独占や不平等などの失敗を生み出すので、政府が介入するほうが良い、

 

と認識しているようだ。(特に日本では、国に反対するなんて非国人みたいな感じになってきた。)しかしもちろん反対に、リバタリアン古典的自由主義者であれば、

 

  • 市場は大まかに成功していて、政府の介入は かえって悪い世界をもたらす、

 

と世界を認識している。まあ、世界観の違いというのは、宗教そのものなので どうにも議論がかみ合わないのが当然だろうが。。。。

 

GAFAがデカすぎるという話にしても、1の認識からは、EUの政策のように、当然に政府が介入するのが正しいということになる。2のボクからすると、GAFAを規制するよりも、放っておくほうが良い(に決まってる)。

 

だってGAFAなんて言葉自体が この10年のものだ。政府の規制さえなければ、次の10年にはまったく新しいプラットフォーマーが出現して、現行の規制の意味がなくなるだろう。政府の規制は、電波帯域の利用法、航空運賃、建築基準、その他の何にしても 必ず既存の企業を優遇するシステムになる。

 

歴史的にそうしたことが明らかなのに、やっぱり人びとは政府の規制を求めて叫ぶ。おそらく我々の心(脳内)に、政府のやることは正しくて、(利潤原理に基づく)企業は信頼できない、という直感を支持するような 生得的な神経基盤があるのだろう。

 

(そういう幻想を感じるような神経基盤があるから、それが正しいというわけではないですよ モチロン。)

 

でも経験的には そうかなあ、どうしても信じられないなあ。ボクは(絶対に責任を取ることのない)政府が作る飛行機やクルマよりも、メルセデス・ベンツの作る自動運転のクルマのほうが信頼できるけどなあ。

 

実際、かつての社会主義国家の安全基準がマトモであった試しはないし、ロシアの国賓は今もメルセデスに乗ってるよ!! 

 

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月10万 x 10% x 100年 = 3000億円

こんにちは。

 

資本主義の問題点として 結果の不平等がうまれるというものが挙げられます。そういう人の主張は 人間の各種の特性が「おおよそ同じ」という感覚に基づいています。

 

 

10万年の世界経済史 上

10万年の世界経済史 上

 

 

 クラークは、「イギリスでは400年以上も安定した社会が続いて、時間選好の低い個人がより多くの子供を残した。その結果、集団の時間選好が低い方へと変化(進化)して、産業革命を支える資本の蓄積が可能となった」というようなことを書いています。

 

これには「そんなに高速にヒト集団の進化が起こるのか?」という疑問もあります。しかしそうした個別的な話の正誤の云々よりも むしろ 「遺伝的な変化が、社会変化の基礎付である」という命題を明確に提示した歴史書である ということのほうが圧倒的に重要です。

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さて こうした歴史書からわかることは、イギリスの産業革命以前 ほとんどすべての社会では利子率は10%をはるかに上回っていたこと。これはヴェニスの商人を読んでも明らかですし、今でも闇金では常識でしょう。

 

 

(ところで経済学のマクロモデル、representative agent =代表的個人モデルでは、個人の未来消費の割引率は同じである、ということになっています。これはそう考えないと、金持ちと貧乏人が自然発生して、モデルが発散して意味がなくなってしまうという(単純にテクニカルな)理由によります。)

 

 

しかし現実には 人間の個人的な時間選好は大きく異なっています。ボクが成人してからすでに30年以上が経ちましたが、例えばこれを40年として老後を考えてみましょう。今 SMBC日興証券のシミュレーターで計算してみると、10万円ずつを10%で40年間積み立てると、6300万円になります。この額は多いものではありませんが、まあ老後には十分ではないでしょうか。

 

https://navi.smbcnikko.co.jp/webasp/smbcnikko/reserve/sim2.aspx

 

おそらく信販会社からローンを借りたりしながら、それを返しながら生きる人と、そういう行為をせずに、指数ETFなんかに貯蓄し続ける人とでは、人生の最終段階で大きな違いが生じるはずです。これは結果の平等を目指す人たちには、一体全体 どう映っているのか??

 

 

さらにシミュレーターに聞いてみました。たったの月10万円の積立が 2-3代 つまり100年も続いたとしましょう。それは2600億円にもなります。まちがいなく大資産家でしょう。

 

 

歴史を勉強すると、「中国の各王朝は200年ほど続くと、社会の不平等がXXX教の乱を生み出した」なんて書いてありますが、それも当然というものです。おそらく全世界で同じことが繰り返されてきたはずです。

 

 

高校時代、あるいは大学時代の若かったときには こうしたことは想像もしていませんでした。大人になってわかったのは、人間の行動は 一人ひとりの見かけなんかよりもずっと違っていて それは累積するということ。おそらくこれは、読者の皆さんの中では ボクと同じ世代になった人だけが共感できる事実だと思います。

 

 

貧困には ランダム・ウォーク的な 多様な人生の偶然も大きく起因していることも疑いません。しかし同時に ゲーセンで遊んだり、パチンコをしたり、風俗に行ったりしたことのない人がいるはずもありません。不平等そのものは望ましくなくても 娯楽活動を始めとした人生の意義を高めるような 何かもっと重要な活動の結果として生じる不平等は 結局やむを得ないのでしょう。

 

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誰でもムダなものを買ったり、する必要もない旅行や娯楽を楽しんだりして、生きてきたはず。最後に金が尽きたら人の金で生きようとするほうが よっぽど奇妙です。

マンションのリスクと外部性

こんにちは。日本の区分所有権法では、タワーマンションの多くがスラム化 → 廃墟になるという話。いまのままじゃ 間違いなく そうなるだろう。 

 

president.jp

 

さて先日、REITの運営会社に勤める友人Aと、いつものように東京駅で飲んだ。以下はその時の会話の一部。

 

ボク「日本のREITって、せっかくファンドなんだから100年とかの 超長期の視点で東京の建物を運営すればいいんじゃない??」

 

A「ああ、理屈ではそうなんだろうけど、日本のビルはゼネコンが儲かるように作ってきたから、50年しか持たないようにできてるんだよ。配管とか いろんなパーツは入れ替えられないように設計されているから 50年くらい経つと、 それじゃ もう建て替えようかって話になるんだよ」

 

ボク「個人なら割引率が10%くらいに高いのは分かるけど。。。なんで何十年も先を見越すはずのファンドが そんなに短期的なの?? 東京のビルを1000億円分ぐらい運用するファンドがあれば 長期的な維持管理費を考えるほうが良さそうだけど。。。」

 

A「これまでの日本では、長期の視点なんて 誰も持っていなかってこと。これからは そういうファンドがあってもいいんだろうけど、、、日本じゃあ まだ聞いたことないな。これからも しばらくはないと思うよ。 みんな短期で売り買いして 儲けることしか考えてない。」  

 

うーん そうなのか-ー!??

 

Lowensteinなんかの一連の研究を見ると、人間の将来所得の割引率は 10%以上にも及んでいる。例えば、省エネのエアコンが2万円高いとして、年間の電気代が2000円で安ければ10年で元が取れることになるが、一般に消費者はあまりそうした大きな初期投資をしようとしない。

 

もちろん、エアコンは10年持たないかもしれないし、あるいは住み替えるかもしれないし、途中にいろいろなリスクがある。それでも まあ一般論としては 「個人はあまり長期的な視点を持つことはない」という命題は正しいように思われる。

 

ちなみに、ボク自身が かなり断熱性の低い家を建てて、もう20年も住んでいるという現実がある。一条工務店の説明が本当なら、一条工務店の家を建てれば、年間の光熱費はおそらく20万円以上も低かったはず。まあデザインとかいろいろあるにしても、今でも あまり多くの人がナダレを打って断熱性を高めるような支出をしているようにも見えない。

 

しかし、賃貸用のタワーマンションを維持管理するファンドなら もっと長期の視点が持てるように思われる。少なくとも 論理的には持つべきだろうし、そうしたREITを評価する証券市場があるはずだ。

 

実際には そんな「理論的に整合的な市場」は 少なくとも今の日本には存在していない。経済学者であれば、それは持ち家制度が賃貸制度よりも税制度で優遇されているからではないか といった理屈が思いつく。

 

そうすると巡り巡って 会社法が株式の価値を規定するのと同じように、やはり区分所有権法という民事法的な制度の枠組みが REIT証券市場での評価を裏付けているという事実に立ち戻る。

 

そうすると、やっぱり所有権法や 区分所有権法そのもののリノベーションが必要なのだろう。

 

 

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295週間 yeah!!

こんにちは。

 

個人的な話で すいません。 ボクの会社は63歳で定年なので、あと10年ということになります。 

 

で、あと10年 x 30週(年間授業) = 300 ですね。 今年はもう5週間が終わった感じなので、 つまりはあと295週間が残された職業生活ということになります。

 

おそらくは その前にボクは死ぬ(まあ やめるということになりますかねww)と思うので、まあ あと 295回は同じことを話し続ることになります。

 

がんばるぞ~ 

 

 

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Ghosen arrested for four times!

こんにちは。

 

もちろんボクはカルロス・ゴーンの件は、トンデモない話だと思ってますよ。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=_ITpv8MZMEc



 

日本の人質司法は戦前からのもので、今頃になって話題になるのは、本当に情けない。ボクが法学部にいた30年以上前からこの問題は(左翼の人権思想から)議論されていたのですが、実務が変更されるはずもなく、現在に至る。

 

 

これまでは、ゴーンのように「重要な」ヨーロッパ系の人間がこの国の司法手続きを受けたことなんて1回もなかったために、この問題は土人同士の内部的な人権侵害でしかなかった、それでヨーロッパメディアがとり上げなかったということです。

 

 

さて刑事訴訟法を勉強したことがある人なら、60条に明記してある勾留の要件をある程度覚えているはず。簡単にいって、逮捕の後に身柄を拘置所に留め置くためには、1.逃亡の恐れ、あるいは2.証拠隠滅のおそれ、のどちらかが必要です。(住所不定もあるけど、それは意味がない。)

 

 

常識的に考えれば、65歳の高齢で、社会的な地位と大きな財産を持っていたゴーンが逃げるはずはないし、証拠隠滅についてもコンピュータや、あるいは最悪の場合は電話へのアクセスを記録、あるいは禁止するだけでよいはず。(AFPなんかによれば、本人はGPS付きの脚錠をつけてもいいと言っていたようですが。)

 

 

結局、何ヶ月でも身柄を拘束して、自白をするまで心身を弱らせるという日本人独特のやり方が丸出しなのです。(こういうやり方が、果たして日本語がわからない外国人に効くとも思えません。)

 

 

おまけに何回も連続に逮捕されて、一体いつまで牢屋に入れときゃ気が済むの??

 

 

「一事件、一逮捕、1勾留の原則」も完全に骨抜きなのがわかります。そもそも罪数についても、実務では自由に行為を分割して何回でも数えることができるという発想なのです。

 

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さてこうした左翼的な批判は誰でも書いているので、ここでは面白くないでしょう。それはさておき、もう少し僕らしく掘り下げて考えて見ると、この国の法感覚、特に刑事手続の感覚と、マッカーサーの置き土産である日本国憲法が、そもそもまったく乖離しているのです。

 

例えば、白人が作り出した近代法の伝統には、「無辜の不処罰」とか言う言葉があります、結局 それは「無罪の人を罰する確率を下げる」ためには、「有罪の人を処罰しない確率を上げる」ことを意味しています。(ちなみにバカらしいことに、こうしたトレードオフを法学者は認めないのが普通です。)。 

 

これは確率学で言う、タイプ1、タイプ2エラーのような考えですね。

 

 

「有罪の人を処罰しない確率」を上げることについては、ほとんどの日本人、特に保守的な日本人は死ぬほど嫌がります。とすると結局、無罪の人を罰する確率を上げるしかない → 司法手続きにおける人権も、適正手続も侵害しまくるしかない。

 

 

アメリカ的なdue processを法文の上で戦後のドサクサで形だけ押し付けても、人の心や価値観は変わるはずがありません。だから結局は、条文と実務とがまったく違うという情けないことが起こるのです。

 

(もちろん、アメリカでは有罪の人間が処罰を受けていないというケースが頻繁に起こっていて、例えばO J Simpsonの事件なんかは、間違いなくクロが無罪になってます。それはそれで、ほとんどの人がこの国の司法はおかしい?? とは思っているのですが、トレードオフからすれば、まあ仕方がないということになるのでしょう。)

 

これには常識的に考えて、2つの対応が考えられます。

 

  • 法に従って適正手続をもっと徹底するか、

 

  • はっきりと「我が国では、人権よりも犯罪の処罰を優先する」という。

 

コズルイ嘘をつき続けるよりは、よっぽど潔いというものです。

 

 

まあムリなんだろうな。だってヨーロッパ人の国はすべて人権重視だし、そんなことをあからさまに言ったら、まるで中国みたいな時代錯誤の国家主義者の集団だと思われるから。野蛮人だと思われるのが嫌だしね。でも、本当のところが、そうなんだから仕方がない。

 

うーん、アジア人の宿痾だな、これは。

 

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