たまたま 今ブログ記事をアップした。前の記事に松瀬さんがTsutaya武雄の話をしてくれたので、それを読んで昔友人と話していたことを思い出した。(松瀬さん、ありがとう。)
ボクは昔から「図書館はインテリのもの → 商業主義は敵」という話に納得できなかった。つまりは「カフェも併設されているようなところで、金も時間もある人はゆっくりコーヒー片手に、美しい空間で本を読むのもいいだろう。金がないならないで、別に本だけ借りても良い」という発想だ。
ところが、なぜだかTsutaya(CCC)のような民間のビデオ屋ごときが図書館を運営するということには、胡散臭さと商業主義の悪臭が漂っているという御仁が多い。武雄市の図書館をTsutayaが運営することに対しては、左翼の方々から難癖としか言いようのない批判があった。
https://www.huffingtonpost.jp/2015/09/10/takeoshi-ccc_n_8117678.html
なんだろう、この金をもっている人を侮蔑するような姿勢。
もちろん金はあっても良い(それは自分か、その祖先が有益なサービスを人々に提供したことを示唆する)し、あるいはないならないで、それでも幸福に生きることは当然に可能であり問題ない。不愉快なのは、図書館がむしろ貧者のための施設でなくてはならないというような考えだ。
ある時、懇意の友人が「昔の図書館には、地域史を扱うような本が我々を睥睨していてこちらも感心したものだが、今の図書館に行っても、『ベストセラーは読みたいが、金は払いたくない』というやつらのために、ベストセラー本が複数用意されているのが見苦しいね」と言っていた。実に、まったく!
図書館に行かない人、あるいは図書館の本は面白くないという人を、できるだけ惹きつけなければ、彼らからの税金で運営されている公営図書館の意味はないはずだ。公共図書館に納得しない人・必要としない人は、月額1万円で六本木ヒルズの会員制図書館=カフェ・自習スペースに行けば良い(庶民のみんな、そういうものが存在するのを知ってましたか?)。なんで、公営図書館はもっといろんな試みをしないのか?
明らかに、この国の常識とマインドセット、前例踏襲主義が我々の生活を貧困化している! 図書館ビジネスを誰がもっとも効率的に運営できるのか? 誰がもっとも公益に合致する精度を作れるのか? よくよく考えてもらいたい。
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