kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

実家のゴミ

こんにちは。

 

授業がすべてリモートになったので、今は完全に富山県に住んでいる。なので田舎の話題にでも話を振ってみよう。

 

僕の実家は、いわゆる田舎臭い存在というものの代表みたいなものだ。ここで言う、その「田舎臭さ」とは、つまりは洗練の逆ということ。例えば、皿もコップも誰かからの記念品、あるいは会社からのもらいもの、みたいな生活では、全体に一貫したデザイン性は望めない。

 

(実際、うちの場合、先祖代々が溜め込んできたガラクタが、すべての押し入れに詰まっていて、それをちょっとずつ出して使っている。もちろん、彼らにとってはガラクタではなくて、意味のあるものであったことは疑いない。服と同じで、持ち物は個人の延長された表現型だから。)

 

うちにあった農協から送られてきた七福神の絵柄のカレンダー。単に農事暦の書き込みが無意味でウザいだけじゃなくて、絵のデザイン・色使いも とんでもなくダサい。

 

新日本カレンダー 2020年 カレンダー 壁掛け 七福神 NK157

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  • 発売日: 2019/09/15
  • メディア: オフィス用品
 

 

さらには、何十年前にもらったのかわからないような、キリンビールアサヒビールなんかのロゴ入りのガラスのコップ。誰かの結婚式の引き出物であったに違いない、とんでもなく使いにくい日本酒お猪口などのセット。タオルも(自分は絶対に使わない日本式の手拭いも風呂敷も)すべて関係先からのもらい物、最低の品質なので快適でないことこの上ない。

 

全部とっとと捨てたいのだが、あいにく燃えないゴミの日は月に一度だけ。先月もその前もかなり出したのだが、それでも全部処分するのに、最低でも1年ほどはかかるだろう。両親だけでも40年以上はガラクタを溜め込んできた。人間が40年以上かければ、とんでもない量のゴミを溜め込めることがよく分かる。

 

さて30分ほどドライブして、イオン・モールまで出かけてスタバに行く。そしてモールの無印良品に行くと、生活用品の一通りすべてが揃っている。シンプルだが、一貫したデザイン性というものがよく分かる。ある意味、北欧デザインと共通しているのだが、ミニマルなのに美しい。

 

田舎臭さというのは、つまりは美的なセンスの欠如でもあるし、あるいは親戚・近所の人間関係のアミにからまって、自分の感性や個性が埋没していることでもある。中世ヨーロッパ教会の10分の1税と同じように、地域の寺と神社、村や班・組への(事実上の)納税も必要だし、おまけに檀家になっている寺の住職が読経にくるというので、その無意味な月イチの読経のために、認知症の母親が常にアレコレと右往左往する。

 

 

もし田舎暮らしが好きな都会人がいるなら、それは田舎の自然の素晴らしさだけを見ているのであって、人付き合いの煩わしさは見たことがないのだろう。アメリカのような新大陸で自然が美しいというのはわかるが、旧世界では自然はベッタリとした余計な人間関係と一緒に存在している。

 

明らかに、田舎暮らしには向き不向きがある。

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