多くの科学史家が語っていることだが、19世紀以前の医療というのは、ほとんどが無意味か、あるいは有害であった。例えば、瀉血療法なんか、近代にいたるまで、もっともポピュラーな治療法だった。ただ体力をなくすだけで、現在は全否定されているが。
では、なぜ人びとは医者の言うことを信じたのか?
いくつもの説がありえようが、僕は医者とされていた人たちの持つ多様な事象の記憶力、それらを結びつけてもっともらしく説明する高い言語能力が、患者にメンタルな安心感を与えたのだと思っている。実際、医者は、どの人間集団でも常に最高の知的集団であり続けてきた。
医療行為が無意味だったのは18世紀までだが、まったく同じことが、現代のinvestment bankerについてもいえる。いくつもの研究が、大きな金融機関の投資運用能力は、市場平均に負けていることを示している。つまり、かつて医療行為をしたら、水銀などの余計に変な微量重金属などを飲んで、早死していたことに例えられるだろう。
では、なぜ人びとは投資アドバイスを信じるのか?
それは投資運用者のもつ多様な社会事象の記憶力、それらを結びつけてもっともらしく説明する高い言語能力が、クライエントにメンタルな安心感を与えているのだと思っている。実際、investment bankerは現代社会の、最高レベルの知的集団である。
目論見書のもっともらしさ、運用を失敗した時の言い訳。どれをとっても、文章はもっともらしく、一流の評論家と同じレベルである。
同じ問題は、政府の役人にもあてはまる。無益、有害な産業政策よりも、それをしないほうがいいのに、なぜか役人のいうことに税金を使ってしまう。例えば、電波帯域はオークションにすれば、税金が安くなるのに、なぜか役人の裁量のほうが安心できる(人が圧倒的なようだ)。
では、なぜ人びとは官僚のいうことを信じるのか?
中央官僚の文章は美しくまとまっていて、(通常人の理解を越えたレベルでの論理の破綻を除けば)、読んでいてもっともらしく安心感を与えてくれる。これを疑う人は、地方議会での答弁を傍聴してみることを奨めたい。たしかに、答弁書のレベルには、言語的な知性の違いが現れていることがわかるだろう。実際、官僚は現代社会の、最高レベルの知的集団である。
共通するのは、古代エジプトの神官と同じことだ。言語的な知性という本来は無意味なものが、社会的には、情報操作の有効な手段となっている。つまり、知的な個人に本来的には実在しないはずの権威と、それに伴う資源を分配しているということだ。
(僕自身もそうなのだが、)無意味な知識に、人びとが幻想としてお金を払っているおかげて生きながらえている。僕はせめて、ホメオパシーという無害なレベルで留まりたい。 i.e., なんらかの積極的政策提言などという、秦の始皇帝に水銀を飲ませる行為をしていないことは、リバタリアンとしての矜持である。