kurakenyaのつれづれ日記

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政治的無知

民主主義と政治的無知 ―小さな政府の方が賢い理由

民主主義と政治的無知 ―小さな政府の方が賢い理由



さて,今日は「民主主義と政治的無知」という本を読んだので,この内容について少し.


1章は,アメリカ国民がどれほど一貫して政治的に無知であり続けてきたかの確認.これを受けて2章は,ハバーマス的な「熟慮民主主義」とか,「討論型民主主義」と呼ばれるような,政治的な議論はまったく非現実的であることを説明.3章は,経済学ではよく知られている「合理的無知」の議論,4章は,情報のショートカットによってこうした無知を克服することは難しいこと.5章は「足による投票」のほうが,政治的な投票よりは実現可能性が高く,現実的であること.そして6章は,違憲立法審査権という制度は,民主主義に基づかないため,民主主義原理とは相反するものだが,にもかかわらず,その正当性は有権者の無知によって,これまでよりも高いものであるだろうこと,を論じます.


経済学者であれば,1章の合理的無知の話については,理解・納得していることでしょう.投票行動が「実際に」影響をあたえる可能性はゼロであるため,「合理的な」人間であれば,政治について知るインセンティブは持っていません.


これを受けて3章の内容では,(ブライアン・キャプランなどが主張するように,投票結果ではなく投票行動そのものが単なる自己満になっているために),人びとは(例えば,自由貿易の否定など)バイアスの掛かった選択をしがちであるといいます.


5章の「足による投票」もまた,経済学ではすでに十分な議論があります.実際に日本でも,子育てにやさしい自治体に引っ越すというのは,よく聞きます.日本にはあまりありませんが,ゲート・コミュニティというのはアメリカでは,非常に普通に見られます.


というわけで,ここまではむしろこれまでの経済学の議論では,常識とも考えるべき内容です.



ソミンの著作の意義と新味は,通常民主主義原理に基づかないと否定的に捉えられることの多い「違憲立法審査権」は,こうした政治的無知の現実から,もっと肯定的に捉えられるべきだという主張にあります.実際,僕はこうした意見を聞いたことはなかったように思います.


これは,ある意味で,ハイエク的「立法 vs 自然法」という視点であり,違憲立法審査権というものは自然法を体現したものであり,自ら愚行を犯す傾向を持つ民主主義的な立法行為を否定するものだと考えることもできそうです.

政治哲学とはいう分野であっても,「有権者が現実には無知である」という事実命題を理解した上で,論理を展開したほうが説得的です.少なくとも,そうあるはずではないでしょうか? その意味で本書の良さ,意義というのは,現実を踏まえたうえで,オーストリア経済学的と整合的な政治哲学の新しい視点を展開していることでした.


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