僕はおそらくwanna be egalitarian なのだろうが、現実はそうではないこともよくわかっているつもりだ。
例えば、僕は小さな時から自分の痩せて小さな体躯が嫌いだったが、それはそれなりに筋トレをした後でも同じだったからには、遺伝を疑う必要があると、当然に感じていた。
双子研究によれば、身長95%、体重は90%以上の遺伝率がある。道理で、僕が中学高校時代に何かしても、どうにもならないわけだ。
さて、ユダヤ人の遺伝的な知的能力については多くの本が出ているし、よんでも来たが、今日たまたま、ネットで「ユダヤ人のノーベル賞の多くは、単なる人的なネットワークの産物だ」という「論文」を読んだ。
http://www.janbiro.com/THE_JEWISH_BIAS_OF_THE_NOBEL_PRIZE.pdf
アイデアは面白いとは思うが、ユダヤ人の知的な活動は、ノーベル賞を授与するスウェーデン人とは関係のない分野でも圧倒的だ。チューリング賞、チェス・チャンピオン、フィールズ賞、果てはハーヴァード大学の入学者の割合でも、同じ程度にユダヤ人がいることをどうやって説明するのか(笑)。当然、著者は、そうした多様な事実は無視できる程度の知識の人なのだろう。
同じように、ケニアのナンディには、過去30年のほとんどのマラソン記録保持者がいることをどうやって説明するのか?
ボルトを含め、過去30年の短距離の記録保持者は、ほとんど全員が西アフリカの出身なのはどういうことなのか?
残念ながら、人は平等には生まれていない。しかし、それをサヨク的に否定するというのは、バカげたイデオロギーの事実に対する優先というものだろう。
生まれ持っての平等という概念は、僕にとっても(あり得るのなら)望ましいとは思うが、そんなことは生物学に照らして、あるはずがない。結局、一人ひとりが、個人として努力するしかない。
同じように、資本主義がいかに偶然に左右される所得制度を持っているとしても、それ以外にはインセンティブ・コンパティブルな制度を設計することはできないだろう。
そういえば、トロツキーの意見は、これに関して特に笑える。「社会主義では、すべてがプラトンの哲学を論じる」のだと。
そんなバカな!!! 人はそれぞれ持って生まれた能力や価値観があり、それに従って生きるのだ。なんで、無意味な哲学に全員が興味をもつのか??? そっちのほうが、よっぽど気味が悪い。Egalitarian の情熱はわかるが、現実に真面目に考えるなら、トンデモナイ世界だ!!