ついに Free to Choose の字幕が終わった。とりあえず、満足しているが、字幕というのは、翻訳ともやや違っていることが痛感された。つまり、当人の話す時間や語順にできるだけ合わせた翻訳を心掛ける必要があって、それがどうしても逐語訳とのトレードオフが生じるのだ。まあ、僕にしては、満足できるものができたと思う。
さて、トマス・ソーウェルが、ディスカッションの中で「理念はよくても、実際の人間が実現できないのなら、それは社会主義だ」というものがあった。
http://www.youtube.com/watch?v=MUMVFBCEjZc&feature=channel
これはpublic choice の考えでもあるのだが、僕はこの言葉に納得して、ハードコアなリバタリアンになった。
ところで、最近、行動経済学をやっていると、安易にdictator game を使って、「ほら、人は普通は相手を思いやり、半分を分けるでしょう。だから、分配の不平等はおかしいんだ」みたいな指摘がある。
僕はこれは愚の骨頂だと考えている。dictator game では、自分が何の理由もなく分配権を与えられているが、こんなことは現実社会では存在しない。誰もが成功するために小さい時から努力を重ね、今の結果があるのだ。なんで、僕の所得の半分を、パチンコばっかりやってきた奴に手渡す必然性などあるのか???
人は、それぞれ、努力する過程で、自分の取り分を正当だと感じ、所得の少ない人は、努力しなかったか、能力がなかったか、その両方だと感じるようになっている。まあ、資質がないのは、その人の道徳的な責任ではないが、やむを得ないと考えるのだろう。じゃなきゃ、なんで芸能人なんてのがいるんだ??
経済実験は結構なものだし、僕もよく使うが、単純化しすぎると現実の重要な側面を逃してしまう。誰もが、人生において努力しているのだから、自分の報酬は正当であり、政府も保護すべきだと感じる。まさにこれこそが、政府の非効率につながるのだ。
正直に言って、僕は農業をやっている日本人が僕よりも努力したとは思わないし、保護に値するとも思っていない。農業にロビイするなら、私立大学にロビイしたい。もちろん、その両方が地獄への道だということは分かっているが、、
あるいは僕は間違っていて、無私公正な判断というものができる教育というものがあるのかもしれない(エンゲルス的教育観)。その場合、政府は大きなものが望ましいということになるだろう(マルクス主義)。しかし、僕はそうした教育は人間の本質に反していて(利己的遺伝子)存在しえないから、強制力を持つ政府を小さくするほうが、よっぽど現実的だと思っている(リバタリアニズム)。
これはつまり人間の理解をめぐる宗教論争であり、よって当然に、近いうちの解決が有りえないだろうことが残念だ。
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