kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

『情況』7月号への寄稿

さて先日小生は『情況』編集部からの依頼を受けて、7月号に向けて、
リバタリアンの構想するネットワークはどのようなものか」というような短文を書きました。


ご存知の方もいるかもしれませんが、「情況」は基本的に左翼誌なので、
そういうところに「貧困問題」への対処法と言う形で、
説得力のある短文を書くというのは大変困難なものだと痛感しました。


なんというか、そもそも常識と言うものを否定するための論述を展開するには
雑誌の数ページ程度と言う長さは、あまりにも短すぎるのです(苦笑)。


生協がしていることはヨーカドーがしていることと全くかわらないと思うのですが、
なぜか「営利目的でない」というのが、左翼的な人々の心に響く部分があるのですね。
それはしかし、税制優遇の部分以外については、
多様な助け合いのあり方として望ましいことです。


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貧困問題のための新しいネットワークをリバタリアニズムはどう構想するか

 アメリ金融危機に発する不況によって、日本でも貧困問題が深刻化している。派遣労働者が突然解雇されてしまう派遣切りの蔓延、解雇時に社宅からも追い出されるというホームレス化の問題など、これまでの日本的な生活の安心は根本から揺さぶられている。いきおい多くの識者は、これまでの政府の福祉政策が不十分であったことを認め、より一層の手厚い政府による福祉制度の充実を訴えることになる。
 私は“リバタリアン”、つまり自由を最大限に尊重すべきだと考える思想を信じている。リバタリアニズムは福祉政策であれ、産業政策であれ、政治的な活動の肥大化と大きな政府は、それ自体が市民の自由を抑圧し、生活窮乏化させると考えている。
 しかし「自由を重視する」といえば聞こえはいいが、つまりはリバタリアニズム新保守主義、あるいはネオ・コンと呼ばれる単なる既存の資本主義制度の擁護者だろうと批判されることが多い。リバタリアニズムは、資本主義を肯定するという意味においては保守主義的な側面も持っているが、基本的に現状維持的なバイアスなどは持っていない。むしろ貧困問題などに対しても、現状以上に、まさに「人間的」な解決法を望ましいと考えている。逆説的に響くかもしれないが、それは政府の肥大化によっては実現不可能なのである。
 この点について、以下説明させてもらいたい。


NPOという自発的なネットワーク

 私が注目し、また感心しているのは、社会問題の解決のために自分で活動を始める人が日本でも近年急増してきていることだ。例えば、本誌掲載のNPO法人もやい事務局長である湯浅誠氏が、2009年の正月に「年越し派遣村」の村長として、派遣切りに苦しむ人々の救済を陣頭指揮していたのは記憶に新しい。年越し派遣村は、基本的に民間NPOが既存の組織のハブとなって主導し、共感する人々の寄付で賄われた。
 他にも、私が素晴らしいと思っている活動はたくさん存在する。包装ミスや賞味期限切れなどから販売しないことにした食料品を集めて、それらを必要とするホームレスや生活困窮者、DV被害者などに配るセカンド・ハーベスト。お歳暮などの実際には不要な贈答品や、あるいは不要になった家具や食器などの生活用品を、それらを必要とする困窮した人のもとに届ける「救世軍(サルベーション・アーミー)」。
 もちろん、古くからの大阪あいりん地区の労働者福祉に取り組むNPOもある。アフリカの栄養失調の子どもを助けているフォスター・プランやTABLE FOR TWOのように、国際的な貧困問題に取り組む団体もある。
 今、多くの人々が、実際に自分の時間やエネルギーを提供して実践的に福祉活動に取り組むようになってきた。それは人々の生き方や価値観の多様化した成熟した社会における、政府という強制力に頼らない、すばらしい社会的貢献のあり方だと言えるだろう。
 こういった自発的な活動について、「政府活動が不十分であるためにNPOがやっているのであり、そもそもは福祉活動は政府がするべきだ」と考える人も多いだろう。しかし、これは従来からの政府中心の政治思想のもつ、致命的な誤謬だ。
 自発的な公民活動が素晴らしいのは、それが政府活動ではないからだ。どれほど道徳的と思われる政治行為であっても、それにはさまざまな理由から反対する人々がいる。政治とは、強制的に市民から徴収した税を、徴収された本人の望まないことが多いような活動に費やすことだ。そもそも活動に同意しているのであれば、自発的に献金することができるだろう。
 市民のNPO活動が望ましいのは、同意しない人々からも強制的に徴収した税金が投入されていないことによる。どういう目的を持つ行為であれ、人が嫌がることを無理やり強制する、あるいはその資源を収奪して実行よりも、説得などによって実現するほうが明らかに「人間的」な活動だ。
 もちろん、こういったNPOのすべてがすばらしい活動をしているわけでない。あるいは単なる節税対策の隠れ蓑になっているかもしれないし、あるいは日本漢字検定協会のように、公益を図るといいながら、実際には理事となっている一族の私物化しているような団体もある。実際、私がかつて勤めていた大学を運営する学校法人は、創設者一族の単なる集金マシーンとなっていた。
 それでも、NPOが政府の活動よりも望ましいことは間違いない。なぜなら、NPOが腐敗しているのであれば、それを知った人はその活動への寄付や協力を止めることができる。漢字検定協会は、現在そうであるように、人々がその活動を拒否して受験しなければ、その資金は枯渇してしまう。
 本誌掲載のパルシステムなどの生協活動もまた、税制上の特権を別にすれば、たいへんに望ましいものだ。生協はもともと会員の相互扶助を目的に設立されたものだが、仮にイオンやヨーカドーなどの大手の流通企業が信用できないのなら、生協に頼るのもいい。それは人々の自発的な助け合いの目的に適っている。
 生協でも、最近の偽装牛肉事件への関与の問題などが起こっており、決して無謬ではない。私の意見では、それは生協組織の現実が単なる一般営利企業とほとんど変わらなくなっているからだろう。それでも、生協の利用は任意であるから、各種の問題は利用者の不買によって正されるという意味で、望ましい自発的な組織である。
 もちろん、人々からの評価を受けて存在するという点は、一般営利企業に関しても当てはまる。誰でも贔屓にしている会社があるだろうが、企業は常に利用者からのチェックを受けている。例えば、2005年から多くの保険会社が、その保険金の不払い問題を指摘された。結果、各社は軒並み加入者を減らし、それは従業員やあるいは株主への制裁となり、その営業方針を変更せざるを得なくなっている。
 この反対に、政府が何かを直接に行うのであれば、それがどんなにズサンで自分勝手な活動になっていたとしても、資金の供給を停止ことは不可能だ。その好例が、社会保険庁の年金情報改竄である。そこでは加入者情報は歪曲されたり、不当に無視されていた。あるいは職員による横領、不正流用もあった。しかし、こういった事態が発覚しても、国民は社会保険料の支払いを拒否することはできない。そして、ほとんどの職員は何の懲罰も受けずに、公務員として現在もその職と給料を保証され続けている。
 つまり、NPOや企業はその活動の重要性や公正性、有益性に応じて、人々からの評価を受けて初めて収入を得ることができるのであって、それらを無視することはできない。こうした社会的な評価によって、ある程度の自浄作用が期待できる。反対に、政府はどういう失態に陥ったときも、その組織は失敗によって縮小するのではなく、拡大する。なぜなら、政府は人々の意見の相違を無視して、強制的に人々から税金を集めて、その活動資金にすることができるからだ。
 貧困の広がりが望ましくないと本当に思う人がいるのであれば、自分の所持金からどれだけかを自分の納得できるNPOに寄付することが可能だ。あるいは自分の時間を使って、活動に協力することもできよう。政府活動のように自発的ではなく、硬直的・非人間的になりがちな活動に期待するのは、道徳的にも現実的にも間違いである。


貧困者への直接支給を増やす
 
 とはいえ、人々の自主的なNPO活動だけでは、到底現在の貧困問題は解決できないという考えるなら、やはり税金の投入しかないということになる。
 仮にこのような考えをとるのであれば、第一に考えられるべきなのは、貧困者への金銭による直接補助であり、第二には、貧困者を援助しているNPOへの実績に応じた補助である。現在の社会福祉事務所やハローワークのように、直接に役人によって構成される行政組織を作るというのは、絶対的に避けなければならない。
 公益的な活動が政府によってなされるなら、長い時間のうちに、そこで働く人々は次第に単に公務員試験の得意な人々が主流となってゆく。そして、その労働の主たる動機は、保身と組織の維持になってしまうからだ。
 よく知られているのは、効率と民間の保育園経営、あるいはゴミ収集事業では、その効率が約2倍程度違うということである。公務であればやむを得ない制約もあるかもしれないが、その効率の差の大部分が組織の維持欲求や、業務の効率化へのインセンティブの欠如から生じているのだ。
 例えばアメリカでの報告では、ニューヨーク市内の小学校の中央事務職員は600人であったが、その5分の1の人数を教育しているキリスト教会の事務職員は26人であったという。政府の活動は費用対効果を考える必要がそもそも希薄であるため、常に無駄が発生し、それは温存されてしまうのである。
 具体的なホームレス対策としてまず第一に為されるべきなのは、本当に貧困にあえぐ人たちへの直接的な生活保護の支給であろう。現在のように「水際作戦」などと称して、適格者にも難癖をつけて給付を抑えるようなやり方は、まさに役人精神の本質の発露であり、政府活動の矛盾そのものだ。
 例えば2007年における日本の生活保護費の総額は2兆6000億円であり、GDPのわずか0.5%だ。対してOECD平均は2.4%、アメリカでさえも3%を越えている。日本のワーキング・プアの多くが、生活補助受給者より貧しい生活をしているのが現実だ。
 特殊な人々の権益でしかない公共投資や産業促進などの無意味な公共投資を即時停止し、農業保護を全廃するだけでも、30兆円を超える予算が捻出できる。それを生活保護にあてることは、日本国憲法に謳われている社会権の具体化として、特殊権益の保護に過ぎない公共投資や農業保護などよりはるかに望ましいだろう。
 付言するなら、現在の生活補助のシステムでは、受給者が賃金を得た場合、その同額分だけ補助が削減される。これでは働くインセンティブが減少してしまう。生活保護者が賃金を得た場合、そのすべてではなく、その一定割合を補助金から差し引く制度(これは“負の所得税”と呼ばれる)にすれば、生活保護と勤労意欲とを両立させることができるだろう。
 さらに弱者への直接支給ではなく、どうしても各種の保護施設をもっと充実するべきだというのなら、欧米を中心に存在するシェルターと呼ばれる保護宿泊施設への補助を考えるべきだろう。例えば、ニューヨークのシェルターは民営であり、利用者に応じて市からの補助金が入る仕組みになっている。


小さな政府の意義

 最後に、リバタリアニズムの立場から、どうしても指摘しておきたいことがある。
 本稿で問題にしているのは、相対的貧困、あるいは金持ちとの格差問題ではなくて、絶対的貧困、あるいは物理的な飢餓や健康への害悪という危険だ。だが、こういった絶対的貧困を多くを作り出しているのは、常識的な発想から批判される資本主義制度ではなく、弱者保護を担うはずの政府だということだ。
 日本は農業保護のために、ムギやコメは国際価格の3倍から10倍、肉類もまた3倍にもなるように関税をかけている。農地には事実上固定資産税が免除されているため、都市部に相続対策の農地が存在し、弱者が住むべきアパート供給も不足して、家賃は高止まっている。地域独占を許された電気・ガス・水道の事業体は他の先進国の2、3倍の価格である。
 現存の政治に有利な既得権益保護を廃止し、自由に世界から食料を調達して、企業活動の自由を認める。それだけで人々は現在の半分の収入でも、自分の掲げた目的のため、幸福追求のために生きることができるのだ。政府の行う個別的な社会政策のすべては、特殊利益団体に集中的に恩恵を与える一方、大多数を少しずつ貧しくしている。それが積もりに積もって、現在のような絶対的な貧困層を生み出しているのである
 これらの個別場当たり的な政策を廃して、さまざまな理由から収入を失ったものには手厚い生活補助を与えて再自立の機会を与える。それこそが、人々の自発的活動のネットワークを最大限に保障し、それらを公民道徳へと活用しながら、自由で豊かな社会を作る唯一の方法なのだ。