kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

日本語が亡びるとき

今日は前から気になっていた、漱石文学の嫡流として『続明暗』で名高い水村美苗さん、
経済学者には岩井克人さんの配偶者であることでも有名な人の
日本語が亡びるとき』を興味深く読んだ。
以下はAmazon.co.jpでの書評と同じになるのだが、


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私の興味を引いた主な内容としては、


1、言語はそもそもラテン語や漢語のように「普遍語」であることが通常だった。
現地の書き言葉が読み言葉となっていたことはほとんどなく、
それは人類の「叡智」を受け継ぐのが普遍語の本質であるため、
読みを中心とする知識層の普遍的な欲求の当然の帰結であった。
なぜなら普遍語は、叡智のテクスト(ほとんどが宗教典)を読むために存在していたからだ。


2、日本は明治以前に漢語の影響下にあったが、それは韓国やヴェトナムほど
完全ではなったため、むしろ、江戸時代までに各種の和漢混淆文を生んでいた。
それが素地になって、明治以降の西洋語を接ぎ木し、近代文学が生まれた。


3、しかし、英語の普遍語化とインターネットの普及によって、
英語の「図書館」だけにインテリが入るようになってしまうだろう。
その時、日本語は現地語となってしまい、
おそらく将来のインテリは英語でしか小説を書かなくなるだろうが、
日本語の良き伝統を守るためには日本語教育こそが欠かせない。


というような感じとなるだろうか。


通常、私は文学者の書いたものをほとんど読まないが、
この本は抒情的な文学的表現のディテールの美しさを失うことなく、
しかし、歴史的な事実についても単なる主観に陥ることなく、
漢籍の日本語化、ラテン語から現地語への歴史などを概説してもいる。
誰にとっても、勉強になることは間違いない。


この著書には書かれてないが、現実をみると、
数学の論文はすべてが数論理言語プラス少しの英語、
物理学や化学、医学論文の95%は英語であり、
Impact Analysisなどを行えば英語論文の価値は間違いなく99%を超えるだろう。
プログラム言語もすべて(除くPascal)が英語起源だ。
疑うことなく、英語は現代のラテン語だろう。


これに対して、近代文学スタンダールからプルーストまで、
個人の内面を描くことが多いので、どうしても現地語が優勢になる。
抒情表現の多くは、文化に固有な響きや比喩性、歴史的沿革を持っているため、
翻訳も完全には可能はならないだろう。
著者が日本文学を愛せば愛するほど、
その固有性と将来性への危惧が高まることがよくわかる。

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さて、小生はあまり小説を読まないが、若い時には
たまには、ちょっとした文学作品やSFなども読んだものだ。
でも、なんというか、小説の内面記述というのは、
人との通常会話と同じで、それはそれで理解するが、
どれもこれも結局「ふーん、そう」というか、聞いても聞いても同じような感じがして、
感性の乏しい小生には面白くないである。


で、正直、別に漱石がいなくても小生的には別段大きな問題は感じないし、
源氏物語などに至っては、
「何でこんなナヨナヨした話が日本文学の最高傑作なの??」などと、
民族主義イデオロギーを信じていた大学時代でさえも、疑問に思っていたものだ。
今となっては、別に何語を話しててもいいじゃん、と思っている。
何語を話したとしても、どのみち個人はその感性と同じ種類の人間を
社会のどこかに見出すだろうと思うのだ。


和漢混淆文を作った日本人がいるのであれば、そのうちあるいは、
和英混淆文が出来上がるかもしれない。
もちろん、水村さんがいうように、
これからはそういった時間もないままに、
英語文化に完全に併呑されてしまうのかもしれないが。


おそらく「言葉」や表現の機微を重視するような
――高い言語能力と関係しているに違いないが――
文学者の憂いとは別に、小生のようなもっと普通の人間にとっては、
何語でもそれほど人間存在に影響があるようには感じられないのである、、、、
むしろ、英語で文章を書くときの負担感の方だけが大きく肩にのしかかるように感じられるのが残念だ。