kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

『適応と自然選択』

こんにちは。

 

久しぶりに図書館を歩いていたら進化論の現代の古典を見つけたので、借りて読んでみた。『適応と自然選択』はG.C.ウィリアムズの有名な本だが、実際に読んだことはなくて、自分の理解では、「集団選択はない」というテーゼを展開した記念碑的著作だと記憶してきた。

 

 

で、いま読んでみると、たしかに「集団選択(群選択)を仮定する必要はない」とは書いてあるが、記憶にあったように、「集団選択はない」とは書いてない。むしろ「それはあるだろうが、ほとんどの場合血縁選択の延長で考えれば良いことで、現実的な集団行動の説明としてありそうもない」ということだった。

 

そうだったのか、やはり偉大な学者の言うことは、その厳密な論理に重要な部分があるものだ。

 

僕は早い時期に、こうしたテーマ、つまり遺伝子が淘汰の単位だということを徹底的に広めたことで有名な、ドーキンスの『利己的遺伝子』を読んだ。それ以来、2000年代まで集団選択をかなり懐疑していた。それからダラダラ生きてきたが、今ではD・S・ウィルソンなんかの影響も受けて、それなりに生物界全般にあるんじゃないかと考え直している。特にヒトでは、疑いなく集団レベルの選択圧がかかってきただろう。

 

ともあれ「種のため」という超抽象的なレベルではありえないが、とある集団がある程度協力して、競合する別の集団と競合する。そうした状況が長期間続く結果、集団のレベルからだけ理解できる行動が進化する状況というのは、それなりに考えられる。

 

人間の場合は、生活史における集団間の戦いが特に顕著なので、今更ここで書く必要もない。だが、そうした集団間の争いこそが、我々の道徳観、つまりは利他主義や友情などの、人間的な感情を生み出したことは、今でも驚き続けている。

 

逆に言えば、集団間の戦争がない時代がこれから何万年も続けば、少年ジャンプ的な価値観(とそれを支えていた遺伝的な神経回路)はすべて雲散霧消することになるということ。。。

 

平和な暮らしは素晴らしいものだが、その代償として失うものはかなり大きいようにも思う。

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