kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

妄想的断定の偏在

Thinking, Fast and Slow


ちょっと飽きて、途中で読むのをやめていたカーネマンの後半を読み続けてみた。内容としては特に新しいことは書いてないのだが、彼が繰り返しているのは、ほとんどの専門家の自信というのは盲信、あるいは過信であるということ。


一番良く知られているのは、やはり投資信託などのファンド・マネージャーの能力、あるいは専門知識。実は、彼らのパフォーマンスはまったく一貫していないだけでなく、市場平均を下回っているという点。これは僕も授業でよく話すのだが、あまり学生には感慨を与えないようだ(ザンネン)。どれをよんでも目論見書の文章のうまさがキワダツ!


同じコンテクストでは、政治評論家、経済評論家の将来予想。これはまさに単なる言葉のアートで、どうやってお喋りが、もっともらしいかを競いあうだけというものだ。


あるいは各種の経済指標の予想。来年の経済成長率の予測などは、日銀その他、どの機関もムダなことを無限に繰り返していて、税金の無駄遣いそのものだ。


こうしたバカ話はこれまでも多く紹介してきたが、カーネマンが強調しているもう一つの例は、医者が自分の診断を過信する傾向があること。そして、確率的に、つまり自信がないように話すことは、患者の方でも望まない、という現実。


これは難しい。


僕はどの政治家のセリフを聞いていても、バカらしくなってしまうが、それは懐疑主義者だからだ。つまり、どの政治家も口にする、「絶対に」というようなことはないだろうと感じるわけだ。だが、人びとは断固、決然とした政治家を現実に望んでいるのであって、確率的な物言いをするような弱腰なヤカラは、政治家として失格だ。


だが、医者の診断も、そんな風であっていいのか??


僕はそうした断定的な診断を望んでいないが、間違いなく、多くの人びとは、それでは納得しないのだろう。結局は、診断も医療サービスである以上、どうしたサービスであれ、それを顧客が望むような形で提供する必要がある。弱気な診断は、無能な医師の診断力を意味しており、そんなサービスなど要らないということなのだろう。


結局、僕は断定的な政治家や評論家、あるいはファンド・マネージャーの提供している「勝手な断言」とそれに基づく活動のサービスを必要としていない。投資信託は自分で選べるが、政治活動は僕に強制的に押し付けられてしまい、選択肢はない。ここが僕がリバタリアンである理由だ。


カーネマンは、こうした民主主義の抱える問題点をよくよく理解していて、その改善にはpessimisticだと言う。ならば、なぜ民主主義者であり続けられるのかはナゾのままに残る??