kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

ポイントカードを使わないことの損失

今日はちょっと屁理屈を一つ。


僕は今日地下鉄に乗った。ところが、カードの残額が少なかったので、新しいカードをかって、それらを使って、チケットを買って乗ることになった。ところが、このやり方では、次に乗る必要があるバスの割引が受けられない。僕はこの割引(わずか80円)を受けることができないために、それだけ損をしたと言えるだろう。これはホントの話。


同じように僕がいつも持ち歩いている(特別に小さくて、なんと1000円以上もした)ハンコを落としてしまったため、新しいはんこを100円で買ったとする。これは数年前の話。


これらの話では、僕個人がお金を損するのは同じだ。しかし、その社会的な意義はまったく違う。前者では、僕は名古屋市交通局に80円余計に支払ったが、それは僕の損失ではあるが、僕の資産は名古屋市に移転されている。だから、社会的に見ると、差し引きはゼロだ。

後者では、僕はハンコを落とし、最低100円は損をしているが、この損失は僕が損をしただけで、誰も得をしていない。新しいはんこを墨が買った店は一見して100円得をしているように見えるが、そのハンコも仕入れ価格があるため、数エンしか得をしていないだろう。つまり、ほとんど僕の損失しかないのだ。


この二つは僕にとっては同じだが、社会的にはまったく違っていて、前者は避けるべきとは言えないが、後者は避けるべきだ。前者では、僕はどの道80円高くても納得してバスに乗ったのであり、それが意味するのは、80円の消費者余剰が、生産者余剰に変化したということだ。


対して、ハンコを僕がなくしてしまえば、それは経済全体から僕の持っていたハンコの価値1000円がそのまま消失したことになるである。


このつまらない(笑)話のオチは何か?それはつまり、僕らはいろんな店のポイントカードに煩わされる必要は(あまり)ないということだ。僕がビック・カメラでポイントカードを使わなければ、僕は損をするが、ビック・カメラは得をする。だから、もともとの価格に納得しているのなら、別にさらなるポイントをオシム必要はない。金は天下の回りもの、なのだ。あるいは、それは僕が何か重要なものを壊してしまったこととはまったく違うわけだ。


アメリカでも昔に比べて、やたらとスーパーのポイントカードが増えていることに驚いた。おそらくは管理費用が安くなったのもあるだろうし、ポイント制度が消費者の囲い込みに有効であることがわかったのだろう。日本でもポイント制度が多いが、そんなことにこだわる必要はないように思う。僕はできるだけポイントを使わないで、生きようと思っている。それの方が、つまらない囲い込みの感覚から逃れることができるからだ。


価格差別というのは、資本主義の一部となっていて、僕のようなオメデタイやつから多くを汲み出す制度なのだが、今の僕は、そんなことの情報処理よりも、どこの店でも買えるという心の平穏の方が大きな価値があると思っている。おまけに、僕の損失はスーパーの得なのだから、寄付でもしたのだと考えればいい。


ポイントカードを持っているからと行って、その場所で無理に買い物をするというのは、スーパーにはありがたいのだろうが、僕には時間と労力の無駄だと感じる。そう感じない人も多いことは認めるが、余り気にしないと言うのが、アタラクシアに至る道だと思う。