kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

ダダイズム

今日ちょっと時間があったので、超遅ればせながら「ブラック・スワン」を読んでみた。この本は、どうやら人によって大きく評価の分かれる作品らしいのはわかっていたが、なるほど読んでみてその理由が納得できた。


著者タレブはレバノンで生まれ育ったインテリなのだが、その大部分が自慢めいていて、冗長過ぎるが、鼻につく。それは僕にとっては特に問題はなくて、むしろそういったエッセイはエッセイで楽しめるものだと思う。タレブは古典的な知識人であり、その多方面への造詣は驚きである。ほとんどの大学人、あるいは職業哲学者よりもはるかにアカデミアにふさわしい傑物だ。こういう人が中東なんか(失礼)にもいるとは驚きだし、人間の知的活動の広がりを感じて楽しいものだ。

ただ、主張の核心部分において、彼の批判がポパーと軌を一にして、プラトンへの一方的な批判になることの方が僕にとっては気になる。

金融の時系列データは正規分布するということは殆どなくて、べき乗分布か、あるいはその他の未知のファット・テールな分布であることはよく知られている。ここから、タレブは現在の金融工学の主流であるブラック・ショールズ方程式が、(正規分布を仮定しているから)間違いであり、スーツを着た頭の固いプラトン主義者たちの信仰対象になっている裸の王様だという。


僕はポパーの「開かれた社会」には共感するが、しかし、既存の理論というものに対しても基本的に敬意を払うプラトン主義者だ。どの道、人間には「理論なき認識」などできないと思っているからだ。この意味で、タレブの確率についての認識はどこか不可知論的な響きを持っていて、あるいはファイアーアーベント的で、僕には理解はできても、どうも納得できないものなのだ。


ある理論を批判をするなら、その対抗仮説を出さなければならない。単にある理論が間違っているというだけでは、認識の転換を促すことはできないし、面白くもないように思う。理論というのは、しょせんは近似、あるいは思考のツールでしかない。僕を含めて、主流派の人間というのは、クソな理論でもないよりはマシという考えなのだ。


クソなものはいらないというのは、ダダイストとしては格好イイのかもしれないが、凡庸な美的感覚の持ち主としては、それは僕の感性ではないということになる。どちらが優れているかなんて証明できない。これは美学の問題でしかなく、だからこそプラトン主義を敵にする論者は科学の非実践者には圧倒的に多いのだと思う。