このところなんとなく物を書いていなかったが、
今日たまたま『タバコ狩り』という新書をもらって、
ちょっと感想を書こうと思った。
著者は横浜国立大学の室井尚さんなのだが、
この人は岩波系というか、社会学的、
あるいはフーコー的な視点で現代文明を見る人だ。
というわけで、僕とは全く異質なものだ。
しかし、結論として、
喫煙の自由は擁護されるべきだ、
という点、あるいは、
喫煙の害悪は本人の問題であり、
それを禁止するのは異様な全体主義的態度だ、
と言う点では一致している。
なかでも興味深いのは、タバコの副流煙の害が
巷間主張されるよりもはるかに小さい可能性である。
これは多くの嫌煙運動の原動力となっているので、
著者が指摘するように、受動喫煙のリスクがたかだか1,2程度であるのなら、
そういった問題ははるかに小さなものであることになる。
なお、著者の半科学主義的な主張によると
「多くの人はタバコの害が証明されるなら、
その証拠や論理は重要ではないと感じているようだ」と批判しながら、
同時に、副流煙被害のメタ・アナリシスについて、
他の要素があるだろうから重要なものとはいえないとして無視しようとするなど、
やや論理的には破綻しているように見受けられる。
おそらくこういった細かな論理展開は、人文系の学者にとっては重要ではないのだろう。
もっと辛らつな批判は山形浩生さんの
http://cruel.org/other/smoking.html
にあるので、読んでみてもらえば、全体としての意見についても、
僕と山形さんが似たような認識を持っていることがわかる。
もっと決定的に僕の見解と異なっているのは、
アメリカの押し進めるグローバル資本主義に反対する人々、
あるいはWHOの主張する科学と異なった見解を持つ人は
排除されてしまうという科学信仰の現代社会の排斥的な精神「病理」と
タバコの排斥は共通している、
という認識だ。
いうまでもないことかもしれないが、僕は、
こういうのは、ありがちな左翼的妄想だと感じている。
おそらく誰でも人は、自分の視点から物事を見る傾向が強いのだろう。
僕の場合、世界的、WHO的なタバコ排斥は資本主義とも、アメリカとも関係がなくて、
単なる人々の政治運動の偶然的な高まりだと認識するのだ。
さて、脱線してしまったが、僕はかつて、
喫煙の自由を擁護する詳論を書いたことがある。
なんにつけても、本人が死ぬだけのことを他人が法律を使ってまで、
阻止しようとするのは、他人の意思決定の自由への侵害と言うものだ。
よく言われることだが、ナチスは健康オタクな政党でもあった。
僕自身は喫煙者ではないし、むしろ健康には悪いだろうと思っているし、
友人には勧めない。
しかし、室井さんも指摘するように、
そういった行為は動物性脂肪をうまいと言って食べたり、
自動車のスピードが楽しいと感じて楽しむのと同じだろう。
セロトニンレベルが上がって、ゆったりとした気分に慣れるのは
決して個人にとって意味のないことなどではない。
社会の名の下に個人の小さな自由が否定されることについては、
読者の皆さんもよくよく警戒されたい。