人についてのベキダ
次に、個人の行動についてのベキダ、単純なところでは、あまり対人的な行動ではないような活動がある。これらの個人的道徳と呼ぶべきタイプの規範について考えよう。ちなみに、ここで私の記述に影響を与えているのは、個人道徳と後述する社会道徳を峻別し、個人道徳への懐疑を主張したジョン・マッキーというイギリスの哲学者である。
たとえば、「勉強するべきだ」とか、「早寝早起きをするべきだ」とかいうような、生活規律に関するものがある。こういったベキダの意義を理解するのは、だれの目にも容易なことだ。例えば「早寝早起きをするべきだ」というのは、「早寝早起きすれば、健康増進につながる」のだから、「健康に生きたい」という願望を満たすための行動準則を意味している。
あるいは「勉強すべきだ」とは、「裕福さが望ましい状態であるから、それを達成したい」という本人――というより多くはむしろ親だろうが――の願望を表している。これには、「勉強すれば、一流の会社に勤める可能性が上がり、より金銭的に恵まれるチャンスが増える」という常識を前提にしている。
この「勉強すべきだ」の例については、もっと「道徳的に望ましい」考え方によることもできる。私はあまりこういった考えに同感しないが、「より多くの知識を持つことは人生を豊かにする」、そして「人生の豊かさは幸福につながる」から「より豊かな人生を送りたい」という願望から「勉強すべきだ」というのも、一応はアリだろう。
人はだれでも、衣食住の足りた品位のある生活がしたいし、友人たちからもそれなりに敬意を払われたい。そういった願望は、数多くの日常的な生活訓としてのベキダを生みだすことになる。
例えば、「偏食はさけるべきだ」、「太り過ぎはメタボになりやすいから気をつけるべきだ」、「飲み過ぎには気をつけるべきだ」、「睡眠不足は避けるべきだ」といった具合である。
こういった数多くのベキダができなければ、普通の社会生活を送るのは難しくなるだろう。当然に友人の尊敬を受けたり、いわんや出世をしたりすることもできなくなってしまうが、これらは社会的な動物である人間の基本的な欲求そのものである。
では、これらのベキダに対して、デアルは一体どう関係してくるのか。
デアルは基本的に、ベキダという願望の実現のためのツールとなる。自然や自分を取り巻く客観的な状態や法則を理解しないままでは、多くの願望は実現が難しくなってしまうからだ。
「太りすぎないべきだ」というとベキダに対しては、「長時間の有酸素運動が脂肪の燃焼には効果的だ」、「炭水化物よりも繊維質のものを摂取する方がカロリーが低い」というような知識、つまりデアルが役に立つだろう。
こういった個人の行動やそのパターンとしての人格の望ましさ、あるいは徳目を語ることは、自由主義を基調とする現代社会では、あまり強調されないことが多い。それらが健康に直接にかかわるというようなことでもなければ、価値観の押しつけだと感じられるからだろう。
とはいえ、孔子やアリストテレスの時代から、こういった個人的な人格の徳についての多くの思索がなされてきた。西洋哲学アリストテレスを受けて、現代の哲学者でも、自由主義に押されて決して主流ではないものの、マッキンタイアの『美徳なき時代』などには、その復興への企てが感じられる。おそらく、多くの東洋の保守主義者は、孔孟の人徳の思想に共感を持っているに違いない。
さて、個人的なレヴェルでの規範についてはこの程度にしたいが、これが社会的なルールを含む社会的道徳の種類のベキダになると、はるかに分析が複雑になる。
その中では、犯罪についての規範がもっとも単純だろう。例えば、「窃盗をするべきではない」、「殺人をするべきではない」などの行為規範がある。犯罪行為とは、被害者にとって重大な犠牲を同意がないまま一方的に課し、その犠牲の上に行為者が利益を得るというタイプの行為である。
では、どうして犯罪を慎むベキダは発生したのだろうか?それらが一般に、状況にほとんど依存しない普遍的な禁止規範なのはなぜなのだろうか。詳しく後述するが、これは犯罪行為の状況をめぐるデアルが、ある種のベキダを持つ個体を有利にしたというものである。非常に簡単にいえば、デアルが長い時間をかけて、人間の心の中のベキダを作り出したのだ。
このことは、もっと弱いレベルになるが、犯罪の禁止ほどではない多様な社会規範にも当てはまる。例えば、「人を信頼し、裏切らないべきだ」とか、「ウソをつかず、正直でいるべきだ」、というようなものである。
これらについては、「期待に裏切らないこと」も「他人に正直でいること」も、直接には自分の利益にならない場合もあるだろう。また、それらを守らない行為が罰を受けるというほどの不利益も存在しない。しかし、それでも後述するように、やはり長期的な視点からみると、これらの規範行動は本人の利益になることがほとんどなのである。
ここで興味深いのは、「裏切らない」という道徳律は、自分を取り巻く周囲の人々の行動に応じて、説得力が違ってくるということである。明らかに、周りの人たちのすべてが裏切り続けるような環境において、自分だけが他人を信頼し続けることは難しい。そもそも「信頼」の道徳律自体が崩壊してしまうため、結局は社会のみんなが損をしてしまう。
つまり、構成員のほとんどが社会規範を守ることは、お互いにとって有益であるということなのだ。この点についても、次章以降でもっと詳しく説明しよう。
社会のベキダとは
さて最後に、社会についてのデアルとベキダについて考えてみよう。
もちろん、「社会」という個人を超越した実在が、現実に存在するわけではない。あるいはある種の現代思想では違った用語の使い方をするかもしれないが、私がここで「社会」というとき、それは多数の個人の集まりのことでしかなく、社会状況とはつまりは個人行動の集合のことだ。
だから、社会の状態についてのデアルは存在し、それは人々の行動や価値観についての記述をある程度まとめたものだといっていいだろう。
たとえば、「ソヴィエトは社会主義国家であった」というときは、もっと説明的には「政治制度が中央集権的であって、商品の生産が国家によって計画的になされていた」ということを意味する。
ではなぜそういった社会が存在していたのかといえば、ある程度の数の人々、少なくとも支配者層やどれだけかの思想家たちがそういった体制を望んでいたからである。構成員の全員がバカバカしいと思うような政治体制が、長期間にわたって存続することはない。
その反面、社会のあり方についてのベキダを語るということは、直接的には社会制度がどうあるべきかについて記述している。しかし、それは間接的ではあっても、つまり社会を構成する個人の信念に対してのベキダを語っているのである。
王制や幕府制の時代、庶民は「為政者があれこれすることによって、どのようにか社会を変化させるべきだ」などと議論し合った。専制政治であれば為政者は名目的には一人なのだろうが、現実のほとんどの王制では、王の親族や家臣団がそれなりに影響を持ちつつ政治がおこなわれていただろう。これらの場合、政治を担う集団を作る人々の信念が変われば、政治は変わったはずだ。
現代に支配的な民主主義政治では、より多くの小さな権力者、あるいは有権者がいるため、ますます個人と社会は分離してしまっているように感じられる。しかし例えば、左派の人々が「日本は社会民主主義国家を目指すべきだ」と主張するとき、彼らは「日本」という意志をもった超越的な人格を考えているのではない。普通は、直接的には「日本国は福祉制度を充実してゆくべきである」といっているのだ。
そしてそれは、民主主義制度を前提とするなら、結局のところ「日本人の一人一人が社会民主主義、あるいは福祉国家の理念に納得して、政治制度をつくっていくべきだ」といっているのだ。つまり、個人の考えを変えるべきだという、個人についてのベキダであるということになる。
こういうと、何か当たり前のことを言っているように感じる人がいるかもしれない。けれども、私が若い時代に読んだようなマルクス的な共産主義思想は、社会主義の到来という超越的な歴史法則としてのデアルを語りながら、同時に、個人の価値観のベキダについても整合的に説明できるいうような記述も通常であった。
ある社会への移行が歴史的な「必然」であるにもかかわらず、個人はそれを実現するための先兵と「ならねばならない」というのは、いったい論理的にどういう関係にあるのか。これが論理的に奇妙なものであることは、カール・ポパーをはじめとして、これまでに多くの哲学者が指摘してきた。
この本でも、デアルとベキダについての思索を通して、そういった論理、疑似論理についていろいろと考えてみたい。
デビッド・ヒュームとの「存在と当為の問題」
一八世紀の初頭に、スコットランドの啓蒙思想家デビッド・ヒュームは、デアルがベキダとは異なることを指摘した。主著『人間本性論』には、以下のように記されている。
「私がこれまでみてきたすべての道徳体系において、常に私が気付いてきたことがある。それは、推論や神の存在の確証、あるいは人間のあれやこれやに関する観察を通常行うとき、著者たちはしばしば、「〜である」と「〜でない」についての命題を一般的に使う代わりに、必ず「〜べきか」あるいは「〜べきでないか」に関係した命題を使うことである。私は常にこのことに唐突に気付き、驚かされてきた。この違いはほとんど気付かない程度のものではあるとはいえ、結論はまったく異なっている。」
私の訳文が拙くて申し訳ないのだが、ヒュームはつまり、論理的であるはずの推論や、実際にそうであるかどうかについての自然的な命題にまで、「〜であるべきだ」からそうに違いないと主張することが多くみられると嘆いているのだ。これは存在命題と当為命題、あるいは事実命題と価値命題を峻別するものとして、別名「ヒュームの法則」とも呼ばれる。
このような命題表現についての論理的な相違についての指摘は、二〇世紀に入ると、より明確な形で、イギリスの分析哲学者G・E・ムーアによって「自然主義の誤謬」と命名された。彼によれば、デアルとベキダはまったく異なった概念であり、デアルからベキダは導けないというのである。
ムーアの問題意識の背景には、一九世紀の終わりのには、社会ダーウィニズムの流行がある。それはダーウィン的な進化論を社会全般に当てはめる傾向であり、そこでは、「良い」というような規範的な命題はすべて、「生き残りを可能にする性質のことである」とか、「社会が生き残れるような規範」であるというように、最適者生存の立場から解釈されたのである。ムーアの指摘は、〈良い〉という概念は自然の状態によって説明することはできないという、社会ダーウィニズムに対するアンチ・テーゼだったのである。
実際のところ、ムーアはその著作『倫理学原理』において、ヒュームよりも、もう少し広い射程を狙って論理を展開した。直接的なベキダ文だけではなく、「〜はいいことだ」といった価値判断文についても、それは検証できない主観についての命題であり、客観的に共有できるデアルの命題とは異なることを明確にしたのだ。
しかし、この問題はそれ自体が哲学的に大きな広がりを持った問題なので、ここでは深入りしない。ただ、ムーアが指摘したことによって、確かに一般的にデアルはベキダと混同されて使われており、それが論理的に誤りであることは広く認められたことが重要なのだ。
この後、エイヤーやヘアーなどといった英米系の分析哲学者たちは、この伝統を受け継いだ。デアルは事実についての命題だが、ベキダは情緒的な、あるいは規範的な命題であるとして、両者を別の次元のものとして取り扱ってきたのだ。
もっと最近になって、アメリカの哲学者ジョン・サールが、言語行為論によって二つの概念の架橋したとも主張している。しかし、これには私を含めて多くの人が納得していないようだ。よって本書では、分析哲学の伝統に従って、ベキダとデアルは別のものだとして議論を進めよう。
カール・ポパーの批判的二元論
大学時代から、私が大きな影響を受けてきた20世紀の哲学者に、ウィーン生まれのカール・ポパーがいる。彼は『科学的発見の論理』において、科学と疑似科学の判別に際して「反証主義」を唱え、現代へと続く科学哲学を提唱したことで広く知られている。
ポパーは同時に、全体主義や社会主義に反対する自由主義的、人道主義的な社会哲学者でもあった。一九四三年に書かれた『開かれた社会とその敵』における彼の主張は、本書の主張と相当に重なっている。その第5章は「自然と規約」と題されているが、ここでいう自然とは自然法則のことであり、規約とは規範のことである。以下に、少し引用させてもらおう。
「原初的部族社会ないし「閉ざされた」社会に見られる呪術的態度の特徴の一つは、普遍のタブーや掟や習慣などをもつ呪縛された円陣内で生活が営まれ、しかもそれらが日の出や季節の循環やそれと似た明瞭な自然の規則性と同様に不可避なものとして感じられるということである。またこの呪術的な「閉ざされた社会」が現実に崩壊してはじめて、「自然」と「社会」の相違についての理論的理解が展開できるのである。
・・・この展開の分析にはある重要な区別を明瞭に把握することが前提となると信じる。それは、(a)自然法則ないし自然の法則、たとえば太陽や月や惑星の運動や季節の継起等を記述する法則とか重力の法則または熱力学のようなもの、と(b)規範法則ないし禁止と命令、すなわちある様式の振舞いを禁じたり要求したりする規則、例えば十戒や下院議員選挙の手続きを規定する法規やアテネの国制を制定する法律など、との間の区別である。
これらの問題の論議がこの区別をあいまいにする傾向によってしばしば損なわれる」
というのである。
ポパーの分類によると、科学的な知識の蓄積される以前の原始社会では、自然法則と人為規範とが同一視されてしまう傾向がある。これを彼は「素朴一元論」と呼ぶ。これに対して、科学的な知識が確立した「開かれた社会」では、自然と規約、つまり本書でいう存在と当為の概念は峻別されるようになる。これは「批判的二元論」と呼ばれる。
そしてさらに、ポパーは自然主義の誤謬について批判的に論理を展開する。
「私は大多数の思想家、とくに多くの社会学者と一致して、(a)の意味での法則すなわち自然の規則性を記述する言明と(b)の意味での法則、すなわち禁止や命令のような規範、の間の区別が根本的な区別であり、これら二種の法則はほとんど名前以外の何物をも共有していないと信じる。だが、この見解は決して一般的に受け入れられているわけではない。それどころか、多くの思想家たちは(a)の意味での自然法則に適って制定されたという意味で「自然な」規範 - 禁止や命令 – が存在すると信じている。彼らは例えば、ある種の法規範は人間本性と、それゆえ(a)の意味での心理的自然法則と合致しており、また他の種の法規範は人間本性に反するものもあろうと言う。そして人間本性と合致していることを示すことのできる規範は、(a)の意味での自然法則と実際には大して異ならないのだ付け加える。」
ここで、ポパーは確かにデアルとベキダはまったく異なったものであることを断言し、さらにどちらからどちらかを導き出すことはできないことも注意している。しかし、彼の指摘にたがわず、彼以前にも、また現在までもデアルとベキダは混同され続けてきたし、お互いに思想的な影響、あるいは汚染を与え続けてきた。
そして本書のテーマは、この不思議さ・奇妙さとその理由を読者と分かち合うことにある。
ソーンヒルのレイプ戦略説
さて、ここで少し読者を試してみたい。デアルとベキダは違うという、純粋論理に対してどの程度納得できるかという点についてである。おあつらえ向きの話題が、10年ほど前にアメリカの生物学者とフェミニストの間で起こっているのである。
進化生物学者であるランディ・ソーンヒルは、レイプというのはメスにもてないオスが、それでも子孫を残すための行動戦略なのではないかという仮説を立てた。彼は共同研究者とともに、ガガンボモドキからオランウータンに至るまでの多くの生物の強制交尾行動を調べて、その結論を人間にも応用したのである。
彼は『人はなぜレイプするのか』(原題A Natural History of Rape レイプの自然史)のおいて、ヒトにおいても、レイプの被害者の数は妊娠可能性に応じて高まること、犯人は普通には女性と配偶することが難しい男であることを示した。
それまでのレイプ理論というのは、社会学がそれほど信奉されていない日本人の視点からは、理論とは呼べないほどに奇妙なものも多かった。例えば、フェミニズムのレイプ理論などでは、「レイプは男性が女性に対して行う抑圧行動である」というように主張される。この説明では、妊娠可能性の高い女性であっても、あるいは、社会的に高い地位にある比較的高齢の女性であっても、あるいは幼児であっても同じようにレイプの危険性があることになるが、このことは明らかに経験的な事実に反している。
しかし、このソーンヒルのレイプ繁殖戦略説に対しては、「レイプを容認するものだ」とか、あるいは「レイプの犯罪性を否定するものだ」といったフェミニストからの感情的な反論が相次いで、九〇年代の後半を通じて大きな社会論争に発展したのである。
しかし、それから10年が過ぎた現在から見ると、ソーンヒルの指摘が生物学的に正しいことは明らかだ。またレイプの被害可能性は性的な魅力に比例する形で生じるため、効果的なレイプ対策をするためには、レイピストたちの趣味を知り、それに対抗する形で対策を講じる必要がある。
フェミニスト理論家たちは、単純な論理的過ちを犯していた。それはレイプが生物学的に見て、オスの心性に進化的に根ざしているというデアルの言明が、そのまま、それは自然なものだから倫理的、価値的にも肯定されてしまうというベキダへのすり替えである。
繰り返しになるが、戦争や犯罪を含めて、何かが長い間存在してきたという事実は、そのままでは、そうありつづけることが望ましいということを意味しない。それらはまったく別の種類の言明なのだから。
ちなみに、この論争には、もっと微妙な論点もあった。それは、レイプは倫理的に許されない犯罪であり、忌まわしい行為であると多くの女性が考えているにもかかわらず、実際にレイプされた女性が妊娠する確率は、通常の性行為よりも高まるという事実である。
明らかに被害女性の感情とは一致しないのだが、どうしてそうなるのだろうか。
これに対して、従来の説明では、単なる偶然だといってみたり、あるいは心理的な過剰興奮などによって誤って妊娠確率が高まるのだとかいってきた。
これに対して、ソーンヒルは「メスがいやがるようなレイプに成功するオスは、その意味において有能なのであり、メスにとっても自分の意識とは別に、そういうレイプ戦略を成功させるオスとの子どもを持つのが有利だったのだ」と説明した。
こういった説明が、女性の権利を推進しようとするフェミニストたちの感情を逆なでしたことは間違いない。あるいはこれは進化的な事実なのかもしれないが、それを聞いて愉快に感じる女性は、どこにもいないだろう。
この問題は、後述するようにベキダがデアルに影響しているとも言えるだろう。フェミニズム研究者の多くは、「レイプはなくなるべきだ」と考えていたのだが、そこから安直に「レイプは自然に存在したものではない」と結論付けていたのである。
しかし、これは「戦争は望ましくない」から「戦争行為は自然に存在していたはずがない」ということと論理的に等しい。戦争のように、勝者にとって明らかな利益を伴い、かつ倫理的な判断も状況に応じて揺れ動くような行為であれば、倫理が実在と混同されてしまうことは少ない。しかし、強い倫理的な感覚は、実在の認識にも影響してしまう。
つまり、自然主義的な誤謬は、多くの人間が自然と嵌ってしまう思考のワナなのである。
「みんなやってるじゃん」という正当化
哲学者たちがこうしてデアルとベキダを区別するようになったとしても、普通の人間にとっては、そういったことはどうでもいいことだ。だから、新聞やエッセイなどでは、自然にみられるものは良いものであり、普通にみられないものは悪いものであると主張されているのは相変わらずである。
例えば、遺伝子組換え作物について考えてみよう。「遺伝子を組み替えることはそもそも自然ではない、だから危険があるかもしれず、悪いものである」というのが反対派の立場だろう。とはいえ、農作物や家畜の育種の歴史とは、人間にとって都合のよい遺伝的な奇形を探し出し、それを育てるようにしたというだけのものだ。レトロ・ウイルスを通じての生物個体間の遺伝子の交換はトランスポゾンと呼ばれるが、これは生物界全体に頻繁に起こっている。つまり別段、遺伝子の組み換えが不自然なわけではない。ただ、人為的なだけなのだ。
もちろん、組み換え農産物には、これまでには存在しない中毒を引き起こすタンパク質などが含まれていることは十分に考えられる。とはいっても、そういった状況は、自然発生した突然変異株の自然交配による育種においても、まったく同じなのである。
あるいはもっと極端な事例として、ヒトのクローン技術について考えてみよう。日本では本当のところ、それほどでもないのかもしれないが、欧米でのクローン技術への反感は非常に根強い。いわく、クローンは「自然ではないから許されない」とか、「人間の普通の繁殖方法ではないから悪い」とかである。
こういった感情的なクローン技術への反対意見は、一九七〇年代には体外受精に対してなされたものとまったく同じである。「体外受精は人の生殖の摂理に反しており、自然ではない」というわけだ。クローンと体外受精が同じような論理構造を持っていることからすれば、現在の体外受精と同じように、将来的にヒトクローンへの心理的抵抗は消滅していくように思われる。
とはいえ、こういった「自然なもの」、「すでにあるもの」は「良い」、あるいは「許される」というのは、どう考えても奇妙な考えだ。これだと、周囲の社会で奴隷制度が普通の状態であれば、奴隷制度は許されることになり、果ては奴隷制度は存続されるべきだ。あるいは、19世紀の中国で纏足が普通であったからには、纏足は女性にとって望ましいものなのである。江戸時代は士農工商の身分制度が三〇〇年近く続いていたのだから、市民平等などとんでもない。
繰り返しになるが、デアルからベキダは導くことは一般的にはできないのである。
がしかし、実際には多くの人々が、これまで社会で行われていることは基本的に否定しないことが多いし、あるいは行われてこなかったことに対しては否定的な態度をとる。おそらく、このメンタリティが保守主義というものの本質なのだ。
あるいは、親に行動を注意された子供は、親に向かって、「だって、みんなやってるじゃん」という言い訳をする。では、なぜ、社会で行われてきたことや、あるいは周りの人々がやっていればいいことだと感じるのだろうか。
それは後述するように、我々の進化過程と、それに伴う行動戦略にある。
先回りして簡単にいえば、ある行動様式が支配的であれば、同じ行動を取るべきであるという状況は、確かに存在していたのだ。いや、それがほとんど常態であったというべきなのだろう。だからこそ、「みんな、やってるじゃん」という言い訳が自然と口に出るのだ。
デアルはベキダを直接的、論理的には意味しない。しかし結局、人間の神経回路自体が40億年の進化の産物である以上、大脳によって〈直観〉されるベキダには、過去の外部環境であったデアルに影響を受けざるを得ない。というより、人間のベキダとは、過去の環境のデアルからの彫琢によって形成されてきたのである。
次章からは、まずデアルがベキダを形成したこと、つまり進化心理学に基づく道徳律の基礎付けについて説明してみよう。
人についてのベキダ
次に、個人の行動についてのベキダ、単純なところでは、あまり対人的な行動ではないような活動がある。これらの個人的道徳と呼ぶべきタイプの規範について考えよう。ちなみに、ここで私の記述に影響を与えているのは、個人道徳と後述する社会道徳を峻別し、個人道徳への懐疑を主張したジョン・マッキーというイギリスの哲学者である。
たとえば、「勉強するべきだ」とか、「早寝早起きをするべきだ」とかいうような、生活規律に関するものがある。こういったベキダの意義を理解するのは、だれの目にも容易なことだ。例えば「早寝早起きをするべきだ」というのは、「早寝早起きすれば、健康増進につながる」のだから、「健康に生きたい」という願望を満たすための行動準則を意味している。
あるいは「勉強すべきだ」とは、「裕福さが望ましい状態であるから、それを達成したい」という本人――というより多くはむしろ親だろうが――の願望を表している。これには、「勉強すれば、一流の会社に勤める可能性が上がり、より金銭的に恵まれるチャンスが増える」という常識を前提にしている。
この「勉強すべきだ」の例については、もっと「道徳的に望ましい」考え方によることもできる。私はあまりこういった考えに同感しないが、「より多くの知識を持つことは人生を豊かにする」、そして「人生の豊かさは幸福につながる」から「より豊かな人生を送りたい」という願望から「勉強すべきだ」というのも、一応はアリだろう。
人はだれでも、衣食住の足りた品位のある生活がしたいし、友人たちからもそれなりに敬意を払われたい。そういった願望は、数多くの日常的な生活訓としてのベキダを生みだすことになる。
例えば、「偏食はさけるべきだ」、「太り過ぎはメタボになりやすいから気をつけるべきだ」、「飲み過ぎには気をつけるべきだ」、「睡眠不足は避けるべきだ」といった具合である。
こういった数多くのベキダができなければ、普通の社会生活を送るのは難しくなるだろう。当然に友人の尊敬を受けたり、いわんや出世をしたりすることもできなくなってしまうが、これらは社会的な動物である人間の基本的な欲求そのものである。
では、これらのベキダに対して、デアルは一体どう関係してくるのか。
デアルは基本的に、ベキダという願望の実現のためのツールとなる。自然や自分を取り巻く客観的な状態や法則を理解しないままでは、多くの願望は実現が難しくなってしまうからだ。
「太りすぎないべきだ」というとベキダに対しては、「長時間の有酸素運動が脂肪の燃焼には効果的だ」、「炭水化物よりも繊維質のものを摂取する方がカロリーが低い」というような知識、つまりデアルが役に立つだろう。
こういった個人の行動やそのパターンとしての人格の望ましさ、あるいは徳目を語ることは、自由主義を基調とする現代社会では、あまり強調されないことが多い。それらが健康に直接にかかわるというようなことでもなければ、価値観の押しつけだと感じられるからだろう。
とはいえ、孔子やアリストテレスの時代から、こういった個人的な人格の徳についての多くの思索がなされてきた。西洋哲学アリストテレスを受けて、現代の哲学者でも、自由主義に押されて決して主流ではないものの、マッキンタイアの『美徳なき時代』などには、その復興への企てが感じられる。おそらく、多くの東洋の保守主義者は、孔孟の人徳の思想に共感を持っているに違いない。
さて、個人的なレヴェルでの規範についてはこの程度にしたいが、これが社会的なルールを含む社会的道徳の種類のベキダになると、はるかに分析が複雑になる。
その中では、犯罪についての規範がもっとも単純だろう。例えば、「窃盗をするべきではない」、「殺人をするべきではない」などの行為規範がある。犯罪行為とは、被害者にとって重大な犠牲を同意がないまま一方的に課し、その犠牲の上に行為者が利益を得るというタイプの行為である。
では、どうして犯罪を慎むベキダは発生したのだろうか?それらが一般に、状況にほとんど依存しない普遍的な禁止規範なのはなぜなのだろうか。詳しく後述するが、これは犯罪行為の状況をめぐるデアルが、ある種のベキダを持つ個体を有利にしたというものである。非常に簡単にいえば、デアルが長い時間をかけて、人間の心の中のベキダを作り出したのだ。
このことは、もっと弱いレベルになるが、犯罪の禁止ほどではない多様な社会規範にも当てはまる。例えば、「人を信頼し、裏切らないべきだ」とか、「ウソをつかず、正直でいるべきだ」、というようなものである。
これらについては、「期待に裏切らないこと」も「他人に正直でいること」も、直接には自分の利益にならない場合もあるだろう。また、それらを守らない行為が罰を受けるというほどの不利益も存在しない。しかし、それでも後述するように、やはり長期的な視点からみると、これらの規範行動は本人の利益になることがほとんどなのである。
ここで興味深いのは、「裏切らない」という道徳律は、自分を取り巻く周囲の人々の行動に応じて、説得力が違ってくるということである。明らかに、周りの人たちのすべてが裏切り続けるような環境において、自分だけが他人を信頼し続けることは難しい。そもそも「信頼」の道徳律自体が崩壊してしまうため、結局は社会のみんなが損をしてしまう。
つまり、構成員のほとんどが社会規範を守ることは、お互いにとって有益であるということなのだ。この点についても、次章以降でもっと詳しく説明しよう。
社会のベキダとは
さて最後に、社会についてのデアルとベキダについて考えてみよう。
もちろん、「社会」という個人を超越した実在が、現実に存在するわけではない。あるいはある種の現代思想では違った用語の使い方をするかもしれないが、私がここで「社会」というとき、それは多数の個人の集まりのことでしかなく、社会状況とはつまりは個人行動の集合のことだ。
だから、社会の状態についてのデアルは存在し、それは人々の行動や価値観についての記述をある程度まとめたものだといっていいだろう。
たとえば、「ソヴィエトは社会主義国家であった」というときは、もっと説明的には「政治制度が中央集権的であって、商品の生産が国家によって計画的になされていた」ということを意味する。
ではなぜそういった社会が存在していたのかといえば、ある程度の数の人々、少なくとも支配者層やどれだけかの思想家たちがそういった体制を望んでいたからである。構成員の全員がバカバカしいと思うような政治体制が、長期間にわたって存続することはない。
その反面、社会のあり方についてのベキダを語るということは、直接的には社会制度がどうあるべきかについて記述している。しかし、それは間接的ではあっても、つまり社会を構成する個人の信念に対してのベキダを語っているのである。
王制や幕府制の時代、庶民は「為政者があれこれすることによって、どのようにか社会を変化させるべきだ」などと議論し合った。専制政治であれば為政者は名目的には一人なのだろうが、現実のほとんどの王制では、王の親族や家臣団がそれなりに影響を持ちつつ政治がおこなわれていただろう。これらの場合、政治を担う集団を作る人々の信念が変われば、政治は変わったはずだ。
現代に支配的な民主主義政治では、より多くの小さな権力者、あるいは有権者がいるため、ますます個人と社会は分離してしまっているように感じられる。しかし例えば、左派の人々が「日本は社会民主主義国家を目指すべきだ」と主張するとき、彼らは「日本」という意志をもった超越的な人格を考えているのではない。普通は、直接的には「日本国は福祉制度を充実してゆくべきである」といっているのだ。
そしてそれは、民主主義制度を前提とするなら、結局のところ「日本人の一人一人が社会民主主義、あるいは福祉国家の理念に納得して、政治制度をつくっていくべきだ」といっているのだ。つまり、個人の考えを変えるべきだという、個人についてのベキダであるということになる。
こういうと、何か当たり前のことを言っているように感じる人がいるかもしれない。けれども、私が若い時代に読んだようなマルクス的な共産主義思想は、社会主義の到来という超越的な歴史法則としてのデアルを語りながら、同時に、個人の価値観のベキダについても整合的に説明できるいうような記述も通常であった。
ある社会への移行が歴史的な「必然」であるにもかかわらず、個人はそれを実現するための先兵と「ならねばならない」というのは、いったい論理的にどういう関係にあるのか。これが論理的に奇妙なものであることは、カール・ポパーをはじめとして、これまでに多くの哲学者が指摘してきた。
この本でも、デアルとベキダについての思索を通して、そういった論理、疑似論理についていろいろと考えてみたい。
デビッド・ヒュームとの「存在と当為の問題」
一八世紀の初頭に、スコットランドの啓蒙思想家デビッド・ヒュームは、デアルがベキダとは異なることを指摘した。主著『人間本性論』には、以下のように記されている。
「私がこれまでみてきたすべての道徳体系において、常に私が気付いてきたことがある。それは、推論や神の存在の確証、あるいは人間のあれやこれやに関する観察を通常行うとき、著者たちはしばしば、「〜である」と「〜でない」についての命題を一般的に使う代わりに、必ず「〜べきか」あるいは「〜べきでないか」に関係した命題を使うことである。私は常にこのことに唐突に気付き、驚かされてきた。この違いはほとんど気付かない程度のものではあるとはいえ、結論はまったく異なっている。」
私の訳文が拙くて申し訳ないのだが、ヒュームはつまり、論理的であるはずの推論や、実際にそうであるかどうかについての自然的な命題にまで、「〜であるべきだ」からそうに違いないと主張することが多くみられると嘆いているのだ。これは存在命題と当為命題、あるいは事実命題と価値命題を峻別するものとして、別名「ヒュームの法則」とも呼ばれる。
このような命題表現についての論理的な相違についての指摘は、二〇世紀に入ると、より明確な形で、イギリスの分析哲学者G・E・ムーアによって「自然主義の誤謬」と命名された。彼によれば、デアルとベキダはまったく異なった概念であり、デアルからベキダは導けないというのである。
ムーアの問題意識の背景には、一九世紀の終わりのには、社会ダーウィニズムの流行がある。それはダーウィン的な進化論を社会全般に当てはめる傾向であり、そこでは、「良い」というような規範的な命題はすべて、「生き残りを可能にする性質のことである」とか、「社会が生き残れるような規範」であるというように、最適者生存の立場から解釈されたのである。ムーアの指摘は、〈良い〉という概念は自然の状態によって説明することはできないという、社会ダーウィニズムに対するアンチ・テーゼだったのである。
実際のところ、ムーアはその著作『倫理学原理』において、ヒュームよりも、もう少し広い射程を狙って論理を展開した。直接的なベキダ文だけではなく、「〜はいいことだ」といった価値判断文についても、それは検証できない主観についての命題であり、客観的に共有できるデアルの命題とは異なることを明確にしたのだ。
しかし、この問題はそれ自体が哲学的に大きな広がりを持った問題なので、ここでは深入りしない。ただ、ムーアが指摘したことによって、確かに一般的にデアルはベキダと混同されて使われており、それが論理的に誤りであることは広く認められたことが重要なのだ。
この後、エイヤーやヘアーなどといった英米系の分析哲学者たちは、この伝統を受け継いだ。デアルは事実についての命題だが、ベキダは情緒的な、あるいは規範的な命題であるとして、両者を別の次元のものとして取り扱ってきたのだ。
もっと最近になって、アメリカの哲学者ジョン・サールが、言語行為論によって二つの概念の架橋したとも主張している。しかし、これには私を含めて多くの人が納得していないようだ。よって本書では、分析哲学の伝統に従って、ベキダとデアルは別のものだとして議論を進めよう。
カール・ポパーの批判的二元論
大学時代から、私が大きな影響を受けてきた20世紀の哲学者に、ウィーン生まれのカール・ポパーがいる。彼は『科学的発見の論理』において、科学と疑似科学の判別に際して「反証主義」を唱え、現代へと続く科学哲学を提唱したことで広く知られている。
ポパーは同時に、全体主義や社会主義に反対する自由主義的、人道主義的な社会哲学者でもあった。一九四三年に書かれた『開かれた社会とその敵』における彼の主張は、本書の主張と相当に重なっている。その第5章は「自然と規約」と題されているが、ここでいう自然とは自然法則のことであり、規約とは規範のことである。以下に、少し引用させてもらおう。
「原初的部族社会ないし「閉ざされた」社会に見られる呪術的態度の特徴の一つは、普遍のタブーや掟や習慣などをもつ呪縛された円陣内で生活が営まれ、しかもそれらが日の出や季節の循環やそれと似た明瞭な自然の規則性と同様に不可避なものとして感じられるということである。またこの呪術的な「閉ざされた社会」が現実に崩壊してはじめて、「自然」と「社会」の相違についての理論的理解が展開できるのである。
・・・この展開の分析にはある重要な区別を明瞭に把握することが前提となると信じる。それは、(a)自然法則ないし自然の法則、たとえば太陽や月や惑星の運動や季節の継起等を記述する法則とか重力の法則または熱力学のようなもの、と(b)規範法則ないし禁止と命令、すなわちある様式の振舞いを禁じたり要求したりする規則、例えば十戒や下院議員選挙の手続きを規定する法規やアテネの国制を制定する法律など、との間の区別である。
これらの問題の論議がこの区別をあいまいにする傾向によってしばしば損なわれる」
というのである。
ポパーの分類によると、科学的な知識の蓄積される以前の原始社会では、自然法則と人為規範とが同一視されてしまう傾向がある。これを彼は「素朴一元論」と呼ぶ。これに対して、科学的な知識が確立した「開かれた社会」では、自然と規約、つまり本書でいう存在と当為の概念は峻別されるようになる。これは「批判的二元論」と呼ばれる。
そしてさらに、ポパーは自然主義の誤謬について批判的に論理を展開する。
「私は大多数の思想家、とくに多くの社会学者と一致して、(a)の意味での法則すなわち自然の規則性を記述する言明と(b)の意味での法則、すなわち禁止や命令のような規範、の間の区別が根本的な区別であり、これら二種の法則はほとんど名前以外の何物をも共有していないと信じる。だが、この見解は決して一般的に受け入れられているわけではない。それどころか、多くの思想家たちは(a)の意味での自然法則に適って制定されたという意味で「自然な」規範 - 禁止や命令 – が存在すると信じている。彼らは例えば、ある種の法規範は人間本性と、それゆえ(a)の意味での心理的自然法則と合致しており、また他の種の法規範は人間本性に反するものもあろうと言う。そして人間本性と合致していることを示すことのできる規範は、(a)の意味での自然法則と実際には大して異ならないのだ付け加える。」
ここで、ポパーは確かにデアルとベキダはまったく異なったものであることを断言し、さらにどちらからどちらかを導き出すことはできないことも注意している。しかし、彼の指摘にたがわず、彼以前にも、また現在までもデアルとベキダは混同され続けてきたし、お互いに思想的な影響、あるいは汚染を与え続けてきた。
そして本書のテーマは、この不思議さ・奇妙さとその理由を読者と分かち合うことにある。
ソーンヒルのレイプ戦略説
さて、ここで少し読者を試してみたい。デアルとベキダは違うという、純粋論理に対してどの程度納得できるかという点についてである。おあつらえ向きの話題が、10年ほど前にアメリカの生物学者とフェミニストの間で起こっているのである。
進化生物学者であるランディ・ソーンヒルは、レイプというのはメスにもてないオスが、それでも子孫を残すための行動戦略なのではないかという仮説を立てた。彼は共同研究者とともに、ガガンボモドキからオランウータンに至るまでの多くの生物の強制交尾行動を調べて、その結論を人間にも応用したのである。
彼は『人はなぜレイプするのか』(原題A Natural History of Rape レイプの自然史)のおいて、ヒトにおいても、レイプの被害者の数は妊娠可能性に応じて高まること、犯人は普通には女性と配偶することが難しい男であることを示した。
それまでのレイプ理論というのは、社会学がそれほど信奉されていない日本人の視点からは、理論とは呼べないほどに奇妙なものも多かった。例えば、フェミニズムのレイプ理論などでは、「レイプは男性が女性に対して行う抑圧行動である」というように主張される。この説明では、妊娠可能性の高い女性であっても、あるいは、社会的に高い地位にある比較的高齢の女性であっても、あるいは幼児であっても同じようにレイプの危険性があることになるが、このことは明らかに経験的な事実に反している。
しかし、このソーンヒルのレイプ繁殖戦略説に対しては、「レイプを容認するものだ」とか、あるいは「レイプの犯罪性を否定するものだ」といったフェミニストからの感情的な反論が相次いで、九〇年代の後半を通じて大きな社会論争に発展したのである。
しかし、それから10年が過ぎた現在から見ると、ソーンヒルの指摘が生物学的に正しいことは明らかだ。またレイプの被害可能性は性的な魅力に比例する形で生じるため、効果的なレイプ対策をするためには、レイピストたちの趣味を知り、それに対抗する形で対策を講じる必要がある。
フェミニスト理論家たちは、単純な論理的過ちを犯していた。それはレイプが生物学的に見て、オスの心性に進化的に根ざしているというデアルの言明が、そのまま、それは自然なものだから倫理的、価値的にも肯定されてしまうというベキダへのすり替えである。
繰り返しになるが、戦争や犯罪を含めて、何かが長い間存在してきたという事実は、そのままでは、そうありつづけることが望ましいということを意味しない。それらはまったく別の種類の言明なのだから。
ちなみに、この論争には、もっと微妙な論点もあった。それは、レイプは倫理的に許されない犯罪であり、忌まわしい行為であると多くの女性が考えているにもかかわらず、実際にレイプされた女性が妊娠する確率は、通常の性行為よりも高まるという事実である。
明らかに被害女性の感情とは一致しないのだが、どうしてそうなるのだろうか。
これに対して、従来の説明では、単なる偶然だといってみたり、あるいは心理的な過剰興奮などによって誤って妊娠確率が高まるのだとかいってきた。
これに対して、ソーンヒルは「メスがいやがるようなレイプに成功するオスは、その意味において有能なのであり、メスにとっても自分の意識とは別に、そういうレイプ戦略を成功させるオスとの子どもを持つのが有利だったのだ」と説明した。
こういった説明が、女性の権利を推進しようとするフェミニストたちの感情を逆なでしたことは間違いない。あるいはこれは進化的な事実なのかもしれないが、それを聞いて愉快に感じる女性は、どこにもいないだろう。
この問題は、後述するようにベキダがデアルに影響しているとも言えるだろう。フェミニズム研究者の多くは、「レイプはなくなるべきだ」と考えていたのだが、そこから安直に「レイプは自然に存在したものではない」と結論付けていたのである。
しかし、これは「戦争は望ましくない」から「戦争行為は自然に存在していたはずがない」ということと論理的に等しい。戦争のように、勝者にとって明らかな利益を伴い、かつ倫理的な判断も状況に応じて揺れ動くような行為であれば、倫理が実在と混同されてしまうことは少ない。しかし、強い倫理的な感覚は、実在の認識にも影響してしまう。
つまり、自然主義的な誤謬は、多くの人間が自然と嵌ってしまう思考のワナなのである。
「みんなやってるじゃん」という正当化
哲学者たちがこうしてデアルとベキダを区別するようになったとしても、普通の人間にとっては、そういったことはどうでもいいことだ。だから、新聞やエッセイなどでは、自然にみられるものは良いものであり、普通にみられないものは悪いものであると主張されているのは相変わらずである。
例えば、遺伝子組換え作物について考えてみよう。「遺伝子を組み替えることはそもそも自然ではない、だから危険があるかもしれず、悪いものである」というのが反対派の立場だろう。とはいえ、農作物や家畜の育種の歴史とは、人間にとって都合のよい遺伝的な奇形を探し出し、それを育てるようにしたというだけのものだ。レトロ・ウイルスを通じての生物個体間の遺伝子の交換はトランスポゾンと呼ばれるが、これは生物界全体に頻繁に起こっている。つまり別段、遺伝子の組み換えが不自然なわけではない。ただ、人為的なだけなのだ。
もちろん、組み換え農産物には、これまでには存在しない中毒を引き起こすタンパク質などが含まれていることは十分に考えられる。とはいっても、そういった状況は、自然発生した突然変異株の自然交配による育種においても、まったく同じなのである。
あるいはもっと極端な事例として、ヒトのクローン技術について考えてみよう。日本では本当のところ、それほどでもないのかもしれないが、欧米でのクローン技術への反感は非常に根強い。いわく、クローンは「自然ではないから許されない」とか、「人間の普通の繁殖方法ではないから悪い」とかである。
こういった感情的なクローン技術への反対意見は、一九七〇年代には体外受精に対してなされたものとまったく同じである。「体外受精は人の生殖の摂理に反しており、自然ではない」というわけだ。クローンと体外受精が同じような論理構造を持っていることからすれば、現在の体外受精と同じように、将来的にヒトクローンへの心理的抵抗は消滅していくように思われる。
とはいえ、こういった「自然なもの」、「すでにあるもの」は「良い」、あるいは「許される」というのは、どう考えても奇妙な考えだ。これだと、周囲の社会で奴隷制度が普通の状態であれば、奴隷制度は許されることになり、果ては奴隷制度は存続されるべきだ。あるいは、19世紀の中国で纏足が普通であったからには、纏足は女性にとって望ましいものなのである。江戸時代は士農工商の身分制度が三〇〇年近く続いていたのだから、市民平等などとんでもない。
繰り返しになるが、デアルからベキダは導くことは一般的にはできないのである。
がしかし、実際には多くの人々が、これまで社会で行われていることは基本的に否定しないことが多いし、あるいは行われてこなかったことに対しては否定的な態度をとる。おそらく、このメンタリティが保守主義というものの本質なのだ。
あるいは、親に行動を注意された子供は、親に向かって、「だって、みんなやってるじゃん」という言い訳をする。では、なぜ、社会で行われてきたことや、あるいは周りの人々がやっていればいいことだと感じるのだろうか。
それは後述するように、我々の進化過程と、それに伴う行動戦略にある。
先回りして簡単にいえば、ある行動様式が支配的であれば、同じ行動を取るべきであるという状況は、確かに存在していたのだ。いや、それがほとんど常態であったというべきなのだろう。だからこそ、「みんな、やってるじゃん」という言い訳が自然と口に出るのだ。
デアルはベキダを直接的、論理的には意味しない。しかし結局、人間の神経回路自体が40億年の進化の産物である以上、大脳によって〈直観〉されるベキダには、過去の外部環境であったデアルに影響を受けざるを得ない。というより、人間のベキダとは、過去の環境のデアルからの彫琢によって形成されてきたのである。
次章からは、まずデアルがベキダを形成したこと、つまり進化心理学に基づく道徳律の基礎付けについて説明してみよう。