僕が大学に入った84年当時、進化論と人間科学を結び付けようとする研究者はいなかったように思う。
社会科学の研究者には全然関係がないと思われていたのだろう。
対して、まさに観念論みたいなのが日本の支配的な社会科学だという感じだった。
しかし、アメリカではすでに社会生物学論争が起こっており、
特にR・D・Alexanderの著作はダイレクトに人間の社会行動を分析していて、
続くDaly and Wilson 、Tooby and Cosmedes などの次世代の進化心理学へと続いてきた。
で、現在までに状況は次第に変化してきているので、
最近たまたま僕の知った同世代の進化論社会科学者3人の印象を、
以下にちょっと書いてみたい。
1人目は帝京大学の大浦宏邦さんで、この人は一応社会学者なのだが、
京都大学では生物学を専攻していて、つまり進化ゲーム理論を使う社会科学者だ。
僕は10年ほど前に彼と一度あって話したことがあったが、
非常に野心的に人間科学の全体を見渡す能力のある人で感慨ぶかく感じた。
その当時から人間だけが群淘汰の対象なのではないかという
Sober and Wilson, Gintis and Bowles のような主張をしていた。
僕はこのことについて曖昧なままにしてきたが、
最近はむしろ、ヒトの群淘汰は言語などと関連して存在したのではないかというのが
学会的には優勢な感じになっているように思う。
10年前には、群淘汰は迷妄だったという理論的に評価を受けていたことを考えると
たいへんな慧眼だったのだろう、と思う。
2人目は先日、メールをいただいて論考を読ませていただいた
鹿児島大学の桜井芳生さんで、この人も社会学者である。
愛国心が集団心理であることを前提として、
貧困者へのある程度の一律保護という社会哲学的な主張をしている。
桜井さんの論的となっている、岩波を代表する立岩真也さんのような人は、
完全な資源配分の平等を目指しているようだが、
そういうことは進化的に存在している人間性からほど遠いだろうという点では
僕の主張と一部的に重なっている。
3人目は一橋大学で法哲学を専攻した内藤淳さんで、
僕はお会いしたことはないが、森村さんからその存在を聞いていた。
専門書『自然主義の人権論』と一般向けの『進化倫理学入門』という書籍がある。
内容的には進化心理学を直接に人権論の基礎として考えるもので、
これによって、形而上学的な基本的人権として考えられてきた
自由権や、社会権などの存在を肯定しようというものだ。
僕は大まかな方向として、この方法に共感しているが、
僕自身の自由権への大きな肩入れは、
内藤さんを含めた多くの進化心理学者よりも遺伝的な個人差を重視するからだろう。
当然に結論としての社会的な理想は相当違っている。
まあ、いくつかの議論の立て方や結論的な違いは大きいままであるものの、
少なくとも議論の俎上に上る論理的な展開方法が同じであるというのは僕にとってはわかりやすいし、
のみならず、自然科学者にとっても理解可能な点でも、
これまでの純粋哲学よりも優位性を持つように感じている。
つまるところ、人間の各種の思考様式が長期において意味があるかどうかは
次世代の判断を待つしかないだが(スコラ哲学やアジア儒学のスバラシイ伝統を見よ!)
ポツポツと日本でも研究者が出てきたというのは頼もしいことだ。