kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

開かれた社会

たまたまポパーの自叙伝を再読していたところ、
木鐸社のSさんとの世間話を思い出した。
いわく「中国が嫌いな日本人は、
やっぱりあの官僚の高飛車な態度が嫌なんじゃない」


なるほど。
毒キョウザ事件にしても、チベットにしても、
あの態度は確かに「開かれた社会」のものではない。
小生は宗教にはあまり感心しないことも多いが、
ダライ・ラマの方がよっぽど人間味があふれて好感が持てた。


論点はつまり、「無謬性」「可謬性」だ。
独裁国家の政策は無謬であり、官僚は誤りがないことを確信している。
対して、民主主義国家では、こういった態度は独善的で支持されない。

あまり実際には機能していないとはいえ、
民主主義とは、政治家が政策を競いあうことによって、政権を担う。
つまり競争があるわけで、どちらかが無謬であるという前提ではない。
これが開かれた社会であるというわけだ。


昔ソヴィエトにグロムイコ外相というのがいて、
彼はMr. Niet or Mr. No の異名をとっていた。
イェリツィンははるかに人間味があったが、
プーチンは元KGB丸出しだ。
将軍様の国でも、すべてが日本の軍国放送のようだ。


本当に納得できることだが、ポパーが言うように、
可謬性の概念こそが人間の知識の前進を支えているのだろう。