kurakenyaのつれづれ日記

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犯罪抑止のリスク心理学

自分でもあんまりにも読みにくい文章をかいてしまったので、ちょっと口直しをしたくなった。以下、テクニカルに法と経済学のなかの、カーネマンも一部を示唆している小さな話題についてかいてみよう。


まず、一般に犯罪の抑止のための処罰は、「期待的な不利益が、利益を上回る程度であれば十分だ」と考えるのが、ベッカリーア以来の合理的刑罰論の主張である。


犯罪の即時的な利得 ≦ 刑罰の不利益 x 刑罰の執行確率 x 刑の執行までの時間割引


というふうに表すことができる。


ところで、この論理で行くと、刑罰を受ける可能性が低くても、厳罰化をはかれば、十分に抑止されることになる。例えば、ゴミ捨てでも、10万分の一の確率で、死刑にするというようなやり方だ。これは、軽微な犯罪者をいちいち捕まえるというコストが省けるので、功利主義的にはむしろ望ましいようにも思われる。


しかし、我々の現代的な正義の観念は、比例原則を要求する。ゴミをすてて、死刑にするというのは応報原則に反していて、到底認められないように感じられるのが、まず第一。


さて、もっと知的に興味深い第二の点。それは、刑の執行確率がある程度下がると、人は「運が悪かった」というふうに捉えるようになり、刑罰を期待的な不利益では計算しなくなる傾向があること。これは、ボクを含めて、多くの人がスピード違反で捕まった時には、実際には単なる確率自己が発生しただけなのに、そう考えずに「運が悪かった」とウソブクことに端的に現れている。


つまり、ある程度以上の刑執行の確実さがないと、人は完全な機械ではないから、うまく損得計算ができなくなって、損を過小に評価する。結果、抑制効果が、合理的に考えるよりもはるかに小さくなってしまうのだ。人は小さな確率(>30%ほど)を、主観的にはより小さく評価することからすると、おそらく、10%では不十分で、30%以上が必要だろう。


そこではじめて、期待確率の相転移のようなものが起こり、「運ではなく、必然的に」処罰がなされるという認識になりそうだ。


最後に、刑罰の執行確率を厳密に計算するのためには、知的な活動が必要だが、それは粗暴犯に代表される、多くの犯罪者がもっとも苦手だろうことだ。主観確率は大きく低下し、また時間割引は犯罪者ではひじょうに大きい。


とすると、有効な抑止のためには、一見して金が余計にかかるようでも、確実かつ速やかな犯罪者の処罰が必要だということになる。


また、捕まる確率についても、「自分は平均よりも運転がうまい」という人が90%もいるのだから、犯罪者のような自己中の場合、はるかに自分の能力を高く見積もり、結果として、逮捕処罰の確率を客観よりも低く見積もることは間違いない。


こう考えてみると、古典的な期待効用理論と、リスク心理学や割り引き率の個人差を含めた行動経済学的な知見は相当に異なっている。のみならず、実際の犯罪抑止についても、異なった、おそらくはより有用性の高い処方箋を提供している。実に興味深い行動科学の進歩だと評価できるんじゃないだろうか。