たまたま本屋で見かけた「葬式は、要らない」という本を読んだ。内容は、仏教が知的な探究活動から、次第に世俗化して葬式に特化した歴史的な事実や背景などについて書いてあるが、特に新しい発見はなかった。
さて、おそらくこのサイトを読んでいるような人は、あまり派手な葬式なんかは好まないタイプなんじゃないだろうか? もちろん僕は極端な合理主義者なので、当然ながら葬式などはなしで、とっとと焼いて、故郷の山にでも散骨してもらいたいと思っている。
で、もう10年以上前の話になるが、帰国した際に良くしてくれた先輩教授がクモ膜で夭折するという事件があった。彼の実家は群馬県で、僕は名古屋から群馬まで片道5時間と旅費の4万円ほどを出してまで葬儀に行くべきか相当に悩んだ。なぜなら、彼には幼い2人の息子がいて、彼らにその額を寄付するほうが、彼の生前の意図(これは僕はよく聞かされた)に合致しているように思われたからだ。
だいぶ悩んだ末に、最終的には焼香に行ってきたのだが、つかれてヘロヘロになった上、知り合いも特にいないし、散々な感じだった。で、その後、彼の家族への寄付のお願いが来たので、僕は私財のバイオを売って、たしか7万円ほど作って送ることにした。
しかし、これは良かったのか? 今の僕の気持ちはやはり、僕の行為は間違っていたというものだ。7万円に加えて、4万円を彼の今も学齢であるはずの二人の息子さんのために送るべきだったと思う。彼の死に顔を僕が見たところで、彼の息子たちの苦境は癒されないのだから。
同意しない人がいることも理解できるが、僕は時間や金銭その他の資源のトレードオフを理解することこそが、経済学なのだと学生にいつも講義している。僕が群馬までいった費用から得た効用は、事後的な判断としては、間違いなく彼の息子に与えられることが可能であった効用よりも少ないと、今僕は確信している。
ネアンデルタール人の時代から行われてきた葬礼という活動を、一般的に否定する気はないが、少なくとも僕にはふさわしくない。僕の本、あるいはサイトを読んでくれた人、僕と話した人が何かを感じ、それを未来の彼らの活動に生かす。それこそが、それだけが僕が願う「生きた証」なのだ。