kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

1.3 大学の学問をみると

大学をみると
 世間で人気の宗教は、憲法レベルでの政教分離の原則もあって、国家からは免税措置は受けても、直接的な補助金をもらうということはない。次に大学での研究を見てみよう。大学とは、我々が国家的な文教予算を組んでまで促進するほど価値のある、様々な学問を探究すると考えられているからだ。
 大学で学問的な探究の対象となっているのは、圧倒的にデアルに関する知識や思索である。数学や論理学は論理関係の真偽を考察し、物理学、科学、生物学などの自然科学は明らかに自然の状態についてのデアルを探究する行為である。どちらも「人間、あるいは自然界かくあるべし」といったベキダを語らない。
 法律学や経済学は少し状況が異なる。法律学では、特定の条文について価値観を陰に陽にしつつ「どう解釈するべきか」を論じ、また経済学でも、「ある目的を達成するには、どのような政策を採るべきか」が語られる。社会科学では、究極的な目的とは、平等原則からくる弱者保護であるとか、あるいは生産力の向上による豊かな社会の実現であるとか、なのだが、ともかくも「どういった価値的な前提を実現するためには、かくかくするべし」という、特定の価値感を前提にしての方策が語られるのだ。
 前述した経営学というのは大学でも探求され、教えられてもいるが、その理論的な色彩は経済学その他の社会科学、心理学などに比べてひじょうに弱い。教科書を読んでみても、ケーススタディが多いこともあって、理論がなくて実例のみがあるという感がある。おそらく現実のビジネスとは、現在の学問的な探究の方法のレベルでは、あまりに複雑に過ぎるのかもしれない。
 ところで、社会科学的な議論の前提となるような根本的な価値観の妥当性などについて議論するのは道徳哲学である。おそらくこれは、大学で論じられている純粋なベキダについての探究だろう。とはいえ、道徳哲学にしても歴史的にはともかく、現在ではその道徳体系を、ある種の基底的な平等原則などのような、基本となる「公理」から演繹しようとする論理的アプローチが増えているほどだ。
 結局のところ、何が重要なことなのか、何が社会において最優先されるべき価値なのかといった、ベキダについての問題を議論しようとしても、水掛け論になってしまう。決着がつけようがないため、学問的に探究しても納得できるものが少ないのだろう。
 ここまで考えてくると次第にお分かりになってくると思うが、個人の行動準則であるベキダと、自然などの状態についての記述であるデアルとは、もともと全然別の概念なのだ。だから、この二つは純粋論理的に考えれば、相互に関係がない。
 このことを早くからはっきりと認識していたと思われる哲学者に、ドイツ観念論のカントがいる。彼は『人倫の形而上学の基礎付け』において、「定言命法」として内的な道徳規範を定立した。そして、その根本的な性質として、「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ 」と記している。
 これはつまり、道徳規範は常に普遍的に妥当するべきものであり、それ自体が目的だということである。仮に「〜するためには、〜するべきだ」というのでは、その「〜するべきだ」の部分は、その前の条件節に依存するため、普遍性を持ちえない。だから、そういったベキダは道徳率とはなり得ないというのである。
 正直なところ、私のカントの理解は非常に限定的なものでしかない。しかし、少なくともここで重要なことは、カントが道徳律の内容は、現実の世界のあり方とは次元の異なった、まさに形而上学であるとはっきりと認識していることにある。
 彼は哲学者として、若い時代に物理学、特に天文学の勉強をしており、いくつかの著作もあるが、これらのデアルをベキダと結びつけるというような考えは結局持ったことはなかった。おそらくは、これらに横たわる異質性の方から、はるかに大きな印象を受けていたのだろう。
 カントは規則的・保守的な生活態度を貫き、中世にドイツ騎士団の建設した東方植民都市であったケーニヒスベルク=現カリニングラードに住み続けた。現地にある彼の墓銘には、『実践理性批判』の結語から、以下の文章が刻印されている。

「我々がより頻繁に、より堅実に熟慮するにつれて、二つの事どもがますますもって新しく、より多くの尊敬と畏怖を以て心を満たす。それらは私の上にある天体と、私の内にある道徳律である。」

カントは少なくとも、物理的な法則と道徳的な法はまったく異なった種類のカテゴリーに属することを、正しく明確に認識していた。
 ここで、デアルとベキダについての第一の結論を簡潔に提示しよう。デアルとベキダは相互に独立したものであり、どちらからどちらを引き出すこともできない。後述するように、ある種のベキダをとればある種のデアルの認識とはつながりがちだし、あるいはある種のデアルの認識はベキダにつながりがちだが、少なくとも純粋に論理的にはこれらの概念は無関係なのだ。


自然・個人・社会の三階層
 ここで、ベキダとデアルの双方について、もう少し分析的に考えを進めてみよう。ベキダやデアルについては、三つの階層が考えられる。まず第一は、人間の行動を含まない自然界、第二は一人ひとりの個人の行動、そして最後は個人行動の集合としての人間社会についてである。
 まず第一に、自然界のレベルから考えてみよう。
 たとえば誰かが、「重力についてのアインシュタイン相対性理論に表わされた物理法則は間違っているべきだ」といったとしよう。このとき、この文章は確かに形式的な文法規則は守っているが、その意味ははっきりしない。
 自然法則が人間の判断であるベキダとは独立に存在すると考える通常人の感覚では、その真意を測りかねるからである。おそらくは、自然への命令ではなく、何らかの理由から「相対性理論は間違っているに違いない」というような推測をしているのかと受け取るのが普通だろう。
 現代人とは違って古代の人々は、人間と同じような人格や感覚・感情を持つ神々によって、自然現象が直接的に支配されているのではないかと考えた。たとえば、カミナリ様という発想は世界各国で見られるもので、そこでは「神の怒りがカミナリなのである」とか、「恐ろしい存在が雷を起こしている」と考えたわけである。
 たとえば、日本でも「雷さま」や「風神雷神」がいて、太鼓を鳴らす「神鳴り」がカミナリの語源である。同じように北欧神話では雷の神はトールと呼ばれ、彼の怒りが雷なのだという考えが広まっていた。ゲルマン人に広く信仰されたトール=Thor、Thursdayの語源でもある。
 こういった古代の人々であっても、結局は自然現象は人知の及ばないものと考えていたようだ。いわんや自然科学的な思考を学んだ現代人であれば、自然と人間の道徳律は、まったく別のものだと考えているのではないかと思う。
 自然の摂理を説明するのに神々が必要ないとする現代科学では、自然法則や、自然現象がどうあるべきかについて語らないことは、ごく当たり前である。だから自然界については、もっぱらデアルが語られるのみであり、それらの外界についての知識は自然科学として確立してきた。
 生物についてはどう考えるべきだろうか。ツル植物に対して、「他の木にまとわりついて、自分で立たないというのは卑怯だから自立するべきだ」といったとしよう。神経系をもたない植物に何かを教えることは不可能である以上、これは植物を擬人化されたお話の中でしか意味をなさなさそうだ。
 動物でも、カマキリに対して「他の昆虫を食べるのは野蛮であるからやめるべきだ」ということは、別に文法的には問題ないと思う。しかし、そもそもカマキリに命令を理解するような知性はないだろうし、条件反射によって虫を食べないように仕向けることもできなさそうだ。当然、体構造上、虫を食べてしか生きることができない以上、こういったベキダ文は意味をなさないことに変わりはないだろう。
 おそらく、哺乳類程度の学習能力があれば、条件反射的な罰を与えることによって、ある程度「〜すべきでない」ということを教えることができるだろう。よってチンパンジーに「バナナを食べるべきではない」というような言明に意味が生じるかもしれない。
 しかし、それにしても「ライオンは肉食をやめて、草食になるべきだ」という人がいたとしても、ライオンは現実的には肉食以外では生きられないので、常識的に考えればそれは自然的な死の命令となるため、あまり意味をなさないベキダとなる。
 では、自然的現実に反する「チンパンジーは乱婚するべきではない」とか、あるいは「ゴリラは子殺しをするべきではない」とかのベキダはどうなのだろうか?これらの行為は、彼らの自然な活動として、おそらく遺伝レベルで組み込まれていると考える学者が多い。
 そうだとするなら、現存する個体については、よほど大きな不利益を与えなくては抑えることはできないだろう。彼らの中でも望ましい一部を育種していけば、そういう変化をもっと簡単に実現できるかもしれないが、ともかくも長期間にわたる大きな精神的な苦痛を伴うことが予想される。
 後述するように、人間はそれぞれが強弱のある遺伝的な行動性向を持っており、それは外部から、あるいは内心における規範感情によってコントロールすることのできる場合もあるだろうし、そうでないほどに強い場合もあるだろう。例えば、多くの小児性愛者は子どもにわいせつ行為を強要して犯罪者となっているが、小児性愛的な趣味を持ってはいても犯罪に踏み切る人とそういった願望をコントロールできる人がいる。これは程度の問題なのだろうが、同時に個人行動のベキダの大きな論点である。