kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

1.1 デアルとベキダ

1、デアルとベキダは別のもの


存在のデアルと当為のベキダ
 環境運動の高まっている現代である。ある日、私は日立グループが提供しているテレビ番組「世界不思議発見!」を見ていたら、そのCMの中で、宮沢りえが「・・・そうだよね、私たちってみんな地球の上に生まれて、地球の上で育ったんだもんね。・・・このままじゃダメって思うことはとってもいいことだから」と語りかけていた。
 私が宮沢りえに好感を持っていることを差し引いても(笑)、別に不思議なセリフではないだろう。環境の重要さを語るような場面では、本当にありふれた表現である。しかし、ここには論理的に無関係なものが無意識のうちに組み合わされている。それは、「我々が地球の上で暮らしてきた」という命題と、「このままじゃダメ」、つまり「環境の破壊活動をやめて、これまでの環境を守るべきだ」という命題である。
 広いくくりではあるが、こういった論理的な展開は「自然主義の誤謬」と呼ばれる。
 なぜなら、美しい何かがあるのであれば、それと一緒に暮らしてきたのであろうがなかろうが、それは守るべきである。反対に望ましくないものであるのなら、それと一緒に暮らしてきたかどうかに関係なく、それはなくすべきものだからだ。
 これについてウィキペディアの記述には、〈詭弁〉の項に、以下のような秀逸で明快な記述がある。


自然主義の誤謬(Naturalistic fallacy)

A「私達はこれまでずっとこの土地で協力し合って暮らしてきた。だからこれからもそうするべきだ」

・・・Aの発言は、記述文(「XはYである」という形式の文)の前提から規範文(「XはYすべき である」という形式の文)の結論を導いている。このような形式の推論を「自然主義の誤謬」(自然主義的誤謬)と呼ぶ。この推論はあらゆる場合に間違い(偽)というわけではないが、あらゆる場合に正しい(真)わけでもなく、この種の論法が論理的な推論法としてもし有効であるなら、あらゆる改革や変更は許容されなくなる。Aの発言は「人類は多くの戦争と殺戮を繰り返してきた。だからこれからもそうするべきだ」という主張と論理構造が等しい。「である」という事実から「べきである」という指針を引き出すことはできないとの主張はヒュームの法則といい、この種の誤謬はIs-ought problem(である-べきであるの混同)とも言う。」 二〇〇八年八月二四日時点

 啓蒙思想家のヒュームについては後述するが、この例「戦争は繰り返されてきた。だからそうすべきだ」には、見事にこの論証の問題点が表わされている。常識的な人間は、誰もこの論証に納得しないだろうが、同時に前述のAの発言には納得するだろう。
 結局、最初にまず価値観が存在して、それに都合の良い事実が肯定的に紹介され、都合の悪い事実は、否定的に述べられるということである。繰り返されてきたことは良いことだ、という考えは保守的思考法の典型であり、それはそれで経験的には理由があるのだろうが、少なくとも「論理的」には正しい推論方法ではないのである。
 日常的に私たちが会話をする時、「何々であるべきだ」という表現と「何々である」という表現は、特別に意識されなくても、十分に使い分けられている。両者は別の混乱を招くこともなく、ごく自然に意味するべきところで、きちんと混在して使用されているのだ。
 ここで、「何々である」という表現は、〈存在概念〉とも呼ばれる。そういった言明、あるいは命題は、自然や、あるいは人や社会の存在状態についての真偽についてのものである。だから、基本的には、そこには特段の価値についての判断を含んでいないと考えられだろう。この存在概念を、本書では〈デアル〉と呼ぶことにしよう。
 これに対して、「何々であるべきだ」、とか、あるいは「何々するべきだ」とかいう表現は、〈当為概念〉と呼ばれる。道徳的な意味での善悪についての判断、あるいは行為や状態についての価値に関しての判断を含んだ命題=文章表現のことである。この本では、この当為概念を〈ベキダ〉と呼ぶことにしよう。
 さて、これらの概念は、それぞれ特定の分野でより頻繁に使われているのが現実のようだ。
 例えば、世の中でベストセラーになるようなビジネス書は、ほとんどが「人生に成功するためにはこれをしろ」とか、「会社を大きくするにはこの方法がいい」、「金持ちになるためのユダヤ人のおしえ」とかいうような、ハウツー本のようだ。正直なところ、多くの学者は、この手のビジネス書のことを読むに値しないと感じていると思う。
 また、巷間流行している多くの宗教をみても、「人生の意味とは何か」とか、「人生いかに生きるべきか」などというようなお題目を唱えることが多い。これはつまり、宗教というのは、第一義的には、世界の状態についてよりも、人生のベキダがもっとも大きな論点になっているということなのだろう。
 とはいえ、各種の宗教では、「理想の社会はいかなるものであるべきか」という社会についてのベキダも語られることは多い。また「神が存在している」あるいは人間は霊的な存在である」といった、自然の状態や世界の構造についての命題が語られていることもある。


宗教を見てみると
 私は、どの宗教にも特別の興味は持っていない。一応ここでは、「幸福の科学」をとり上げてみよう。この団体は、一九八六年に創立され、その後急速に大きな社会勢力となったという点で、それなりに新興宗教的であり、しかし現在ではエスタブリッシュメントっぽくなってきたともいえるだろう。あるいは、将来的には、現在の創価学会程度に大きくなるかもしれない。
 以下の内容は、すべてオフィシャル・ページの一段下のレイヤーにある「ようこそ幸福の科学へ」からの引用である。まず、幸福の科学は独自の現実世界に対する解釈を持っている。それは人間が物質だけで構成されているのではなく、同時に霊的な存在でもあることである。
 そして霊界の構造については、「『永遠の法』〜エル・カンターレの世界観」において、

「一言で「あの世」といっても、霊界はいくつもの世界に分かれた多次元構造になっています。死後、多くの人がまず還る四次元幽界、互いに愛し合うことの喜びにあふれた五次元善人界、各界の指導者が住む六次元光明界、他者への愛と奉仕に生きる七次元菩薩界、人類史にそそり立つ偉人たちがいる八次元如来界、救世主の世界である九次元宇宙界――――。神秘のベールの彼方の世界が明らかにされます。」

との説明をしている。
 ここでは、世界のあり方についてのデアルが、科学的な方法において議論されるような検証・反証可能性などとはまったく別の方法によって得られているようだ。それは教祖である大川隆法ことエル・カンターレの超越的認識だということらしい。
 当然ながら、人の生き方であるベキダについても、十分な記述がある。「『黄金の法』〜エル・カンターレ歴史観」の前書きにおいて、

「全世界に散らばりし光の末裔たちよ、今こそ目覚めよ。地球的仏法真理が説かれる時代が来たのだ。あなたがたは国籍を超えて地球人として、地球的ユートピアを建設しなくてはならない。過去にあなたがたが仏の子であり、光の仲間であったように、今も、そして未来も、あなたがたは仏の子であり、光の仲間であるのだ。憎しみを捨て、愛をとれ。違いを嘆かずに、仏性相等しきを喜べ。希望の21世紀が近づいている」――これがエル・カンターレからのメッセージです。」

と記されている。つまり、どうやら仏教原理に基づくユートピアの建設こそが、信者である人類の行うべき行為、つまりベキダであるということらしい。
 幸福の科学のような小さなセクトではない大きな宗教のレベルでも、仏教には輪廻の思想があり、煩悩を払しょくするべきだと教えてきただろう。また中世のキリスト教が、その世界観として天動説というデアルを採り、そして神の命令として異教徒の排斥や隣人愛のようなベキダを訴えかけていた。
 これは多くの人にとって言うまでもないことかもしれないが、一応指摘しておく価値があるだろう。実際、この事実はよく〈コペルニクス的世界観の転換〉とかいう形で、話題になるからである。それは後述するように、ベキダからデアルが自由になって近代科学を生み出した重要な分岐点の一つなのだ。
 というわけで、他の宗教も大なり小なり同じようなものである。これ以上、多くを引用したり分析する必要はないだろう。ここに示しただけのことに典型的に表れているように、要は宗教というものはほとんどが、人間の精神や自然の摂理、世界の構造というデアルと、それに関連した行動規範のベキダを一揃え持っているものだということなのである。
 おそらくこれは、以下の大学の講義のように、ベキダを語らない学問への物足りなさもあるのかもしれない。私が不思議に思うのは、科学者を含めて本当に多くの人が、世界の構造と我々の行動規範には何らかのつながりがある、というような幻想を持っていることだ。