kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

M.Friedman によるイントロダクションを忘れてました。

イントロダクション
 ミルトン・フリードマン

 レオナード・リードの楽しい物語「わたくし、鉛筆」は、もはや古典となりましたが、それに相応しいものです。アダム・スミスの”見えざる手”と、ハイエクの強調した分散した知識と価格システムの役割の両者を、これほど簡潔、説得的、効果的に描いた文学作品は、私が知っている中には他にはありません。”見えざる手”とは、強制作用なしの協調活動の可能性のことです。ハイエクの強調した重要性とは、「何をするべきなのかを告げられないままに、各人に望ましい行為をさせる」ような情報交換についてのものです。

 私たちはレオナードの話をテレビ番組「選択の自由」に使いました。そして、同じタイトルで同時出版した書籍でも、「市場の力」(これはテレビ番組の最初の放映部分と、本の第1章のタイトルです。)私たちは話を要約して、続けて言いました。

 「鉛筆を生産に携わった数千もの人々の、誰一人として、鉛筆が欲しいから、そうしたわけではありません。その中には鉛筆を見たこともない人もいただろうし、それが何のためのものなのかを知りもしないでしょう。彼らは、自分が望む商品やサービスを得るための手段として働きました。私たちが店に行って鉛筆を買うとき、いつでも自分の小さなサービスと、鉛筆をつくるために貢献したたくさんの微小なサービスとを交換しているのです。」

「実際に鉛筆がつくられるということは、さらに驚くべきことです。これらの人びとに、中央官庁から命令する人は誰もいません。軍隊や警察が、存在しなかった命令を強制することもありませんでした。人びとは多くの国に住み、異なった言葉を話し、違った宗教を実践し、互いに憎しんでいさえもするかも知れません。それでも、これらの違いのどれ一つもして、鉛筆をつくるために協力することを止めさせるはありませんでした。どうしてこんなことが起こったのでしょう? アダム・スミスが200年前にその答えを与えてくれました。」

「わたくし、鉛筆」はレオナード・リードの典型的な作品です。想像力に溢れ、単純で、しかし精妙で、レオナードの書くものや為すことのすべてに吹きこまれている自由への愛が息づいているのです。彼のその他の作品と同じように、彼は人びとにどうすればいいのか、どう振舞えばいいのかを命令しようとはしません。ただ単に人びとが持っている自分自身と、その住んでいるシステムへの理解を、拡大しようとしているのです。

 それは彼の基本的な信条であり、彼が、公共のために働いた長い期間を通じて一貫して守ってきたものです。公共のために働いたといっても、それは政府のサービスという意味ではありません。どんな圧力がかかっても、彼は自分の武器に固執し、その原則を妥協させることを拒みました。それこそ彼が、初期にその基本的な考えを生み出し、その後、普及させるのにとても効果的であった理由です。それはつまり、自由には私有財産や自由競争、そして厳格に制限された政府が必要だという基本的な考えなのです。