kurakenyaのつれづれ日記

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大衆音楽の洗練

こんにちは。

 

先日twitterを見ていたら、

 

「今の音楽が優れているわけではない。昔の音楽が優れていたわけでもない。ただ自分が年をとって新しい音楽に興味がなくなっただけ」

 

というような内容のツイートを見た。

 

実にその通り! 実感する。

 

おそらく大衆音楽の複雑性、あるいは芸術性は次第に高まっている。明らかにボクの一番よく知っている(カラオケで死ぬまで歌えるだろう)80年代の音楽よりも、現在のものは洗練されている。どういった基準を使っても、これはおそらく疑いない。Yoasobiの曲なんかは、ボクの時代の作曲家の感覚では作れないのではないのだろうか??

 

これは、ちょうど戦後まもなくの歌が、ボクが中学になる80年代に聞くに絶えなくなっていたのと同じだろう。とはいえ、YMOなんかは今でも聞けるし、他にも多くの曲が聴くに耐えるものではある。バッハが永遠であるように、ある種のモチーフの永遠性はたしかに存在している。

 

(今になって昔のガンダムなどアニメを見ても、なんでこんなので満足してたのか? みたいに感じるものも多い。モチーフやプロットはともかく、間違いなく映像レベルには格段の差がある。)

 

進化的な適応環境からして、人間はおそらく30くらいまでにいろいろと学習して、それを使って生きるようにプログラムされているのだろう。学習には大量のコストがかかるだろうから、それをやめて全力で使い切るべきだということ。

 

ということで、自分も音楽をほとんど聞かなくなったのはご愛嬌。50代になっても本は読むが、音楽はもうほとんど聞かないということ自体が何かを意味している。それは、これまでの自分にとっても、興味(と才能)に本質的な差があったこと、何に多くの認知的な資源を費やしてきたのかを示すに十分だ。

 

しかし音楽や文学の洗練は、知性と関係している。果たして、こうした洗練度の上昇がいつまで続くのか? 人類の神経科学的な遺伝的ポテンシャルが低下しつつある21世紀のこととして、興味深い。

 

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