kurakenyaのつれづれ日記

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遺骨信仰

こんにちは。

 

あまりルポルタージュみたいなのは読まないんだが、図書館でなんとなく見つけた本を読んでみた。ちょっと前から墓事情とかには興味があっというのもあったので。

 

無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教

 

内容は、檀家の減少する寺の事情、都会のロッカー式の納骨堂ビジネスのあれこれ、自然葬や樹木葬、海洋散骨の状況、東南アジアの上座部仏教のあり方と日本の違い、などなど。新聞や雑誌の記事が30ほど集まって、そのまま本になったという感じ。とても読みやすいのは良いところだし、なんとなく物足りない部分もある。

 

さて内容はともかく、ボクは昔から不思議に思っていたことに、「日本人の遺骨へのこだわり」がある。墓というのは遺骨を入れるところだし、散骨問題も遺骨を特別視することから生じている。

 

遺骨を勝手に捨てるのは、「死体遺棄」に当たる可能性があるという法務省の見解もよくわからない。死体遺棄というのは、生前の故人をリアルに感じられるから、法的な保護に値するのだと思う。ボクの感覚では、遺骨はすでに遺体を適切に処分した後に残る残余の物質である。公衆衛生の見地からも腐敗する可能性がないから、もう遺体にはあたらず、単なるカルシウム片であると考えるべきだと思うんだが??

 

人間の実存的な価値というのは、家族や他の人と交遊して人生を楽しみ、あるいは世界に何かの印象や文章、作品を残したりすることにあるのであって、焼いた後に残った骨に特別の意味なんてあるんだろうか。

 

仏壇やお墓を否定する気はないし、骨を残したい人は保存して、先祖供養をするのは自由だし、道徳的にも納得できる。しかし、そうしたくないのなら、どこの海にでも、私有地にでも自由に埋めていいんじゃないか。どうせすぐに土に帰る。(例えばインドではガンジス川に大量の遺体が流されていることで汚染が問題化しているが、骨だけならそんなことはおきない。)

 

現代の日本に、骨信仰というでもいうようなものがあるのが不思議に感じるということ。だれだって自分の100代前の墓は知らない。日本人というのは、過去5万年の間に、多分2000世代くらいをかけて、アフリカから東南アジア経由で、この島までやってきた。もちろん、その間の墓も骨もない。この島に来てからの、骨と墓に特別な意味を見いだす必要なんてあるのだろうか。

 

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