kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

ジキルとハイドと認知症

こんにちは。

 

まだ十分に酔っ払っていないのだが、母の介護で思うことを少し。

 

認知症とか、あるいはその手前のCMI(cognitive minor impairment)では、自分のしたこと、言ったこと、などを忘れてしまう。そのため、何度も同じ話をする必要があるし、例えば、いろいろな結論や合意ができても、それを忘れてしまうので、そうした話し合いそのものに意味がほとんどなくなってしまう。

 

さてさて、遠い昔に泥酔して朝起きてみると、XXXの状態になっていたことがあった。これにはいろんな状況があるのだが、とにかく自分がやった覚えがないことは同じだ。この時、「あ、自分は昨夜これをしたんだが、今は忘れたんだな」と考えるということになる。

 

実際のボク自身の話としては、ある朝起きたら足の中指の骨が折れていることに気付いた。歩くと痛いのだから、間違いない。昨晩 一人で深酒をしていたことからは、おそらく自分が何らかの理由で(狂って)暴れて、ぶつけて骨折したに違いないとしか判断できない。

 

これは多重人格というほどではないが、それにある程度似ている。そして、こうした合理的な推論ができなくなると、「誰それが、自分のお金を盗んだ」、とか「誰それが、こんな風に自分の悪口を言っている」などという、ほとんど統合失調症のような妄想に囚われることになる。

 

結果、日常生活に支障をきたし、施設に入るしかなくなる。

 

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ある時間の意識ある自分(自我)が、近い将来に存在しなくなり、その思考や活動の記憶もなくなる。これがたまに起こる程度なら、まだ何とかなるが、毎日起こるなら、とんでもないチャレンジになる。

 

そうなると、小川洋子さんの「博士の愛した数式」のように、1時間しか記憶の持続しない個人となってしまうのだ。

 

博士の愛した数式

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博士の愛した数式 (新潮文庫)

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自分のしたことに違いないが、覚えていない。つまりは主観的には、完全な別人だ。それが無限に長い時間で続くなら、責任能力も問えなくなるし、それ以上に自分の毎日がミステリーの謎解きになる。謎を解くだけの知的能力もなくなったところで、子ども(や親族)が施設に入れるということなのだろう。

 

いや、本人の安全ためにも、自分(介護者)の精神安定のためにも入れざるを得なくなるというべきか。。。。

 

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