kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

駅前に増えるのは?

こんにちは。

 

物理物としての銀行支店がなくなるというのは結構なことだ。

 

ところで、今の駅前ビルの1階というのは銀行の支店が大量に場所ととっている。何になるのだろうか??

 

駅前は人通りが多いので、若者向けの唐揚げとか、あるいはマックなんかのファストフードや、それとも年配向けの喫茶店なんかになるのだろうか? あるいは漫画喫茶やファーストキャビンみたいな簡易ホテルが増えるのか?

 

こういうことがわからないのが、さすがにビジネスセンスがないということなのだろう。経済学者が言えるのは、今の銀行の支店がなくなれば、駅前の家賃はわずかに下がり、多様な商店が入居して、消費者はそのスペースでの買い物やサービスから利益を得ることになるだろう、という程度。

 

何でもいいけど、ボクはもう長い間銀行支店もATMも使っていない。とっとと何か有意義なものに変わってもらいたい。

本当に必要なもの

こんにちは。

 

 

前にも書いたことなのだが、アメリカ時代のボスのことを思い出した。彼は妻に対して、「本当に必要なものを買うことにしよう」と提案しているのだと言っていた。ボクはいぶかしく感じていたが、案の定、数年後に彼に会ったときには離婚していた(苦笑)

 

 

何が無理なのか?? といえば、つまりは「本当に必要なもの」なんてないのだ、ということ。この時代に時計などが必要か? (1万円のアンドロイドではなくて)iPhoneが必要か? リーバイスは? ナイキは? 

 

なんだって最低限度の機能を持つものを100円ショップ、古着屋、ディスカウント・スーパーで買って生きることはできると思うが、それが普通の人間のしたい生活になるのだろうか? なんらかの別の遊び、余裕、目的が必要だろう。

 

もっと難しいのは、妻と自分はまったく別人だということ。目的関数が違いすぎる!! こっちが相手の幸せを勝手に判断してやるというパターナリズムをやめて、相当程度に相手の「感じる幸せ」を尊重しなければ、婚姻生活なんて維持できるはずがない。世界に「必要なもの」などは存在しなくて、ただ「欲しい物」があるだけ。

 

ということで、人と人との関係、人生とは知的に理解するものではなくて、実践のアートなのだろう。

 

 

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リスク回避型の効用関数??

こんにちは。

 

ミクロ経済学を勉強すると、人間はリスク回避が普通だということがわかる。だって、50%ずつで0円、100万円のくじよりも、かならず50万円のあたるくじを選ぶのだ。とすると、期待効用関数は凸型のはずで、つまりはリスク回避というわけ。

 

ここからは、実はかなりいろんな発想が出てきている。例えば、ロールズの「無知のヴェール」によると、「人間が、どのような立場になるか知らないままに、生まれるとしよう。この場合、人はリスク回避型だから、できるだけ格差の少ない社会を選ぶはずだ」などなど。

 

正義論

正義論

 

 

ところが、行動経済学を勉強してみると、実際の人間は、「自分だけは特別バイアス」を持っていることがわかる。例えば「自分だけが宝くじに当たるのではないか」みたいな考えだ。誰でも中二病にかかって、「自分が特別な能力を持つヒーローだったら??」みたいなことを夢想するものだ。

 

ボクの時代は、ガンダムだったので、例えば「自分がアムロみたいな選ばれしニュータイプなら」、みたいな感じの空想になる。これが、そのまま戦争に行けば、たいへんにリスク嗜好の個人だということになるだろう。

 

もっと実際的な例で行くと、コロンブスはたまたま生きてアメリカを発見できたが、それ以前のほとんどの新大陸発見の船乗りは死んでいる。同じようにマゼランは5隻の船に270人が乗り込んでリスボンを出発したが、最期は1隻18人しか帰ってきていない!! 海賊王になるのは、とんでもなくタイヘンなことだったのだ。

 

チンギス・ハンだって、織田信長だって、恐ろしくリスク嗜好としか言いようのない人生を送っている。ある種の男は、成功した場合のリターンが桁違いであれば、どんな戦闘にも向かっていくものなのだろう。

 

もっと近いところでは、ビル・ゲイツがハーバードを中退したとき、イーロン・マスクスタンフォードを辞めたとき、ジェフ・ベゾスが高給を投げ売ってアマゾンを起業したとき、(常識的には)そんなに大きなリターンの見込みはなかったんじゃないのか??

 

 

結局、金銭的な評価ができるような場合にはリスク回避がデフォールトだが、不確実性のような、本質的に計量できないような場合には、かなりリスクを許容して生きるというのが人間(特に男)の人生なのだ。

 

 

さて、ここで問題。果たして人間はリスク回避型の効用関数を持っていると言えるのか??

 

ミクロ経済学の記述とは裏腹に、よくよく考えれば、ロールズ流の無知のヴェールは、まったく説得力をもたない。それは、(ボクのように)実践をしない高踏的な学者の思弁に過ぎないのだろう。

 

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失われた30年

こんにちは。

 

勉強熱心な学生がダイヤモンド・オンラインにある面白い記事を教えてくれた。

 

1989年の時価総額をみると、上位50社のうち32社が日本企業で、それ30年後の2019年にはトヨタだけになっているというもの。

 

diamond.jp

 

バブルの最期では、日本企業がやたらと過大に評価されていたのは間違いない。それにしても、今ではトヨタだけというのは、日本経済の現状を実に正しく反映している。

 

この30年に起こったのはIT革命で、GAFAなんかのアメリカ企業の一人勝ちという感じだが、次の30年はどうなるのか? AI・ロボティクス・金融革命でどんな変化が起こるのかが興味深い。

 

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美白化粧品は高額だが

こんにちは。

 

 例えば 良く「美白」みたいな広告が化粧品にあるが、つまりは女の美の価値観の中に「白いほうが美しい」というのがある。でもなんで、そう感じるようになっているのか? というはあまり疑問に思う人はいないようだ。

 

(ところで、メラニン生成遺伝子についてはSLC24A5などを始め、多くの、大部分の遺伝子が特定されている。色白の遺伝子が急速に拡散しているところからみると、人類はかなり急速に白くなってきている。)

 

理屈は簡単で、同じ遺伝子でも、男に比べると、女はメラニンの肌の生成が少ない。皮下脂肪の多さがもともとの理由で、それを強調するために、女の白い肌というのが性的二型として固定したのだろう。

 

こうした性的二型を強調することで、性的な魅力が増すのは赤い唇とかと同じで、そうした理由から女の美しさの基準に色白というのが生まれることになる。

 

男は反対に、中立から色黒であることを望ましいと感じるようだ。そういえば、今日たまたまYouTubeでラスベガスのオリンピアを見ていても、やたらと黒いオイルを体に塗っている。

 

ということで、肌のメラニンのひじょうに多い人種でも、女は色白になるような化粧を好むことになる。これは、かなり不思議ではある。別に東南アジアで美白化粧品が売れる必要はないように思う。

 

とすると、有名なNina Jablonskiのメラニン色素の紫外線に対する意義についての言説は正しいが、しかし女が色白を好むのは幻想や社会的な構築物なんかでは、まったくない。

 


Breaking the illusion of skin color - Nina Jablonski

 

 

ボクは男なので、こうした色白信仰というのに特段の興味はない。けれどもこれだけ通文化的で、普遍的、おまけに何も考えていないような人間こそが信じるような生物的な直感が、無意味であるはずがないだろう。

 

身長の高い男は低い男よりも魅力的であり(どう考えても当然)、実際にほとんどのスポーツで有利だろう。それは男の潜在的な戦闘能力、身体能力そのものを反映している。

 

ムリヤリに「そういう価値は存在するはずがない、道徳的に間違っている」というような神話を信じる、信じようとするよりも、それはそれとして知的に理解してから中立的に見たほうが、よほど生産的だろう。

 

 

合理性と利己的遺伝子

さて、合理性についてさらに追記。あるいは哲学じみた読者に(←いるとも思えないが、)言いたいこと。

 

合理性には、何らかの「目的」に応じた活動という概念が必要になる。もし、人間の個体が「DNAの複製を目指すヴィークル」であることを仮定しないとしよう。この場合、昔からの哲学よろしく、個体にはどんな目的でも可能になるし、その目的に応じて、活動の合理性も判断できるだろう。

 

一般的に美しい容貌を持つ個人が好まれるのは、そうした人間が配偶者として望ましいというDNAからの発生 → 大脳のニューロン配線のハードウェアというレベルでのプログラムによる。

 

さて こうしたプログラムがソフトウェアでしかなくて、すべてを書き換えることができるというのがロック的なタブラ・ラサ仮説である。もちろん、これはロックと、その時代の希望を含んだ仮説だったが、素朴な形では、これは明らかに誤謬だ。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 

 

タブラ・ラサが誤りだとはいえても、程度の問題はまったく良く分からない。実際に、どの程度 さまざまなハードウェア的なプログラムが、後天的なソフトウェア的な書き換え、つまり教育で変化できうるのかは、未知だからだ。

 

例えばヒトは遺伝的に糖や脂肪を好むが、ボディビルを愛するような男は、そうした嗜好を自らの意思で乗り越えて、(まずい)プロテインを主食としている。とすると、ある種の個人は、あらゆる偏見を乗り越えることもできるように思われる。

 

これはある個人の、ある種の特性に関しては、明らかに正しい。ちょうどカルトにはまる個人がいるように、どんな変な考えでも、それに感化されるような人はいるものだ。

 

しかし科学者のほとんどは、こうした話は昔のSFに出てくる人間改造の類であると考えて、全人類レベルでは実現不可能だと考える。おそらく、可能だと考える人は、啓蒙主義の哲学者の生き残りと究極の左翼、マルクス・レーニン主義者だけだ。もしそういう人がいたら、なぜ自分が(誰か自分の好きな)アイドルに好感を持つのかを自問自答すべきだと思うが、一般にカルトの平等主義者というのは、そういった自分の偽善性については、都合よくスルーしているようだ。

 

ダーウィン以前の社会科学・哲学であれば、どういった考えでも、「偏見」の名のもとに望ましくない、それは無意味だから理性の光でその闇をenlightenすれば、なくなるだろう、と断言できた。しかし、これまでの生物学・遺伝学の進歩を直視すれば、そうした人間の無限の可塑性の神話は、おとぎ話でしかなかったことがわかる。

 

では、どういった価値判断なら現存の遺伝子プールから可能になり、どういった価値判断はカルトとして維持不可能なのか??  この話には、オチがない。これは、ボクの究極の問題意識であり、このサイトの意義でもあるので、また考えてみてほしい。

 

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偏見はもちろん不合理だよ by definition

そういえば、京アニ事件を思い出したので、一筆。

 

近代の啓蒙主義や合理性という概念は、もちろん多様性を内包しているのだろうが、それでも「理性」に照らして各種の活動の意味を判断するという点では一致しているだろう。

 

常識的な平等主義の要請からすると、社会的弱者、例えば障害者などへの偏見は「合理的ではない」ということになる。しかし、実際にはほとんどの「偏見」には、むしろ合理性がある。

 

例えば、京アニ事件は 統合失調症患者による被害妄想から引き起こされた。このことが、まったく報道されていないのは奇妙すぎる。偏見の助長という恐れが、報道の自主規制を生んだのは疑いないが、それってアリなの?? 日頃は「市民の知る権利」をうたうマスコミが、自分たちの都合が悪い事実は隠してもいいわけ?? それって国民をバカにするエリート主義ではないの??

 

実際、統合失調症の男性の暴力犯罪率は、健常者に比べれば圧倒的だ。どの研究を見ても、少なくとも5倍を超えている。例えば、

 

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2606714/#targetText=1.,offending%20among%20persons%20with%20schizophrenia&targetText=The%20risk%20of%20a%20violent,Brennan%20et%20al.%202000).

 

これは別に秘密でもなんでもなくて、犯罪学や心理学をほんの少しでもマトモに勉強した人たちには、よく知られている。常識的に考えても、一般的にある種の猜疑心が別人格を構成している場合がもっとも普通なのだ。自分を攻撃する幻覚・幻聴から周囲の人間を攻撃するというのは、ひじょうにありそうな心理機序である。いや、そうじゃなかったら不思議というものだろう。

 

(実際に、ボクの人生でも同僚が突然に暴行を受けている。あと余談だが、おそらく陰謀理論というのは、誰もが持っているような潜在的な猜疑心から支持されているのだと思う。)

 

さて、「実際に」犯罪率が高いのは事実だが、ところで、そういった「偏見」は合理化されるのかといえば、ボクにはよくわからない。そもそも偏見という呼び方そのものが価値判断を含んでいて、「望ましくない見方・好ましくない思い込み」という意味が含まれているからだ。よって論理的には統合失調症患者への警戒は「偏見」ではなくて、ヒトに組み込まれた自然な反応なのだ。しかし、現代の平等カルト思想からすると、そのような反応は不合理で、根拠がないとか教えられる。

 

まあ こうした平等カルトが望ましいと考えるかどうかも難しい。おそらく庶民の知性をバカにしている人ほど、「そうした考えは危険だ」というし、それはそれで正しい部分もあるだろう。

 

もっと微妙な問題は無限にある。離婚をした親を持つ子供、軽犯罪を犯した少年や非行少年を望ましくないと感じること、各種の障害者を忌避しようとすること、果ては美女、イケメンを好むことだって公式見解では不合理なのだろう。実際には、どのような人間の性質や活動にも、ある程度の遺伝的な基盤がある。実は、とても合理的なのだ。

 

さてこうした「合理性」の定義には納得しない人も多いだろう。

 

ここでこのことをよく考えれば、合理性という言葉自体が、また「望ましい考え方」というような価値判断を含んでいることがわかる。そしてさらによくよく考えれば、結局は、近代の啓蒙思想全体が1つの神話体系であることが了解されてしまう。(もちろんボクは啓蒙思想が好きだが、)ハテサテ、どこまで近代的な価値観というものが強制されるべきなのか、望ましいのかはよくわからない。

 

ああ無情! 自然の状態・実態と、その望ましさとは、まったく(論理的に)無関係なのだ。